男の切れ味(下) 小堺昭三 [#表紙(表紙3.jpg)] 目 次  加藤建夫  小林一三/岩下清周  野村證券の「帝王学」 [#改ページ]     加藤|建夫《たてお》 [#ここから5字下げ] 無類のチームワークを誇る世界屈指の戦闘機隊を生んだ「空の宮本武蔵」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔瀬島龍三に匹敵する男〕  第二次大戦中、南方戦線で勇名を轟かせた加藤「隼《はやぶさ》」戦隊は、華北上空において中国軍機を撃墜し初陣を飾って(昭和十二年九月)以来、英軍爆撃機ブレニムを追撃中に被弾した加藤建夫隊長がベンガル湾上空で戦死する(十七年五月)までの四年半に、合計二七一機の敵機を屠《ほふ》っている。飛行機が兵器として活躍しはじめた第一次世界大戦この方、世界屈指の名戦闘機隊であった。  三十九歳の加藤建夫中佐は「空の軍神」として二階級特進の少将となり、その陸軍葬は東京の築地本願寺において執行されている。  その葬儀において「一に空中の報効を以て自己の天職となす」との弔辞を総理大臣東条英機が捧げており、南方方面軍最高指揮官の大将寺内寿一も「高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥オヨビ優秀ナル操縦技能」を感状のなかで賞讃している。加藤にはこの個人感状を含め、七度の感状が与えられている。陸軍史上唯一の例である。  昭和十九年春、東宝映画が山本嘉次郎にメガホンをとらせて「加藤隼戦闘隊」を製作させた。加藤に扮した主演男優は藤田進。当時、九州の田舎の旧制中学生だったぼくは、この映画を教師に引率されて街の映画館へ観にいった記憶がある。単座戦闘機「隼」の雄姿に軍国少年のぼくらは無邪気に拍手、歓声をあげたものだった。  それから約四十年の歳月が流れている。先日、ぼくはこの原稿を書くため小金井市に住んでおられる、未亡人の加藤田鶴さんを訪ねた。まだ茶畑などが残っている閑静な住宅地。彼女は七十二歳、敷居に三つ指をついて昔風に挨拶される。白髪の、お若いころはさぞかし美女であったと思われる気品のあるご婦人だった。  加藤少将の部下であった檜与平氏(六十二歳)もみえ、快く取材に応じてくださった。右脚は義足である。加藤隊長の仇を討つべくビルマ上空で空中戦をやっているとき、敵弾に砕かれたのだそうだが、 「じつは、映画『加藤隼戦闘隊』の原作者はわたしでして、山本嘉次郎監督と旅館にこもって脚本にしたのです」  と聞かされて、ぼくはすっかり感傷的な気分になってしまった。「隼」の雄姿に拍手喝采した軍国少年が、敗戦後の混乱期をくぐりぬけて四十年後に、軍神の未亡人や生き残りのパイロットに現実に会えたのだから、その胸中は複雑にならざるを得なかったのだ。  檜氏(当時は中尉)は加藤隊長が戦死した五月二十二日の戦中日誌に、 「十四時三十分、敵爆撃機ヲ急追出撃セシ瞬間、国宝我等が部隊長加藤中佐ヲ失ヒタリ。何タルノ痛恨事ゾ。豈ニ戦隊ノ損失ノミナランヤ我国ノ損失言語ニ絶ス。此ノ部隊長ノ下ニ死ヲ誓ヒシ身、亦モ残ル。只此上ノ責務ハ軍神部隊長ノ任務必達ノ精神ニ生キンノミ」  このように誌して滂沱の涙を流している。  ぼくは、こんな質問からはじめた。 「もし、加藤少将が戦死しておられず、今日の社会でも活躍していておられたら、どんな人になっていたでしょうね」  檜氏が明快に即答した。 「洞察力があって研究熱心で、責任感のつよいお方だったから……財界の瀬島龍三さんのような方になっておられるでしょうなあ」 「まあ……そのようなご立派なお方にはとてもとても。お恥ずかしゅうございます」  そばで未亡人がしきりに謙遜される。  改めて紹介するまでもなく瀬島氏は、巨大商社伊藤忠商事の首脳。陸軍幼年学校、陸軍士官学校出の加藤と同じく職業軍人。関東軍作戦参謀中佐のときに敗戦。シベリア抑留生活を経験して帰国後、伊藤忠に迎えられて才腕をふるい、土光敏夫経団連前会長とともに鈴木善幸内閣の行政改革問題を叱っている。明治四十四年生まれだから加藤田鶴さんと同年齢。 「……なるほど、瀬島龍三ねえ。現代に生きていて加藤さんも活躍してほしかったなあ」  ぼくは自分に呟いていた。 〔空の宮本武蔵〕  加藤建夫は「空の宮本武蔵」といわれていた。  日中戦争の初期——加藤が初陣の功をたてたころの陸軍主力戦闘機は九七式戦闘機(時速三八〇キロ、装備七・七ミリ機関銃二挺)で航続距離が短かった。そこで加藤は、できるだけ敵地に接近しておこうと潜伏飛行場を用意した。味方の第一線歩兵部隊のすぐ背後に、離着陸ができるだけの畑を見つけておいて、敵にさとられぬようそこまで低く飛んでいって翼を休めておく。  敵戦闘機や偵察機が飛来してくるのを発見したとたん、不意に舞いあがっていって禿鷹のごとく襲う。敵機発見の連絡をうけてのち後方基地から発進するのでは間に合わぬからで、こうした意表をつく戦法を用いたりするところから「空の宮本武蔵」にされたのだ。  蒋介石を支援するアメリカ、イギリス、ソ連が、優秀なパイロットとカーチスやイ15などの戦闘機をさかんに中国へ送りこんでいたので、日中戦争とはいっても空中戦はすでに欧米が相手であった。  洛陽を爆撃する重爆撃隊を掩護して出かけたとき、八機の加藤隊は迎撃する二十一機のソ連製イ15と、入り乱れての空中戦を展開している。隊長加藤の日誌には、 「この間、余は二機を撃墜す。第一機は一連射にて火災を起さしめたるも機関銃の故障五回、まさに追跡してただ一撃と思う瞬間にて無念やる方なし。故障排除の間の後方に対する苦痛」  とあり、ほかのイ15に追尾されはしないかと気が気でなかったのだろう。  離脱上昇して旋回、故障を調べながら部下たちの戦闘状況にも気をくばる。故障が直るとすぐまた、垂直降下で敵機を追う、というふうで、このとき撃墜数は十二機、味方機を一機失っている。  日本海軍の名機「零戦」に匹敵する、陸軍の「隼」(時速四九〇キロ、装備七・七ミリ機関銃一挺、一二・七ミリ機関砲一門)が中島飛行機製作所で開発されたのは昭和十四年のことである。この設計には今日、ロケット博士として有名な糸川英夫氏も参加している。  もっとも、最初から「隼」は名機だったわけではない。設計に無理があったり材質に欠陥があったりで、飛行訓練中に空中分解した。急降下すると胴体に亀裂がはいる事故もおこって墜落。多くの犠牲者を出しながら二式に改良されて、ようやく安心して操縦ができるようになったという。  しかし、その「隼」といえども、現代のF4ファントムやミグ25のような、電子機器によって正確に行動できるほど高性能ではない。頼りは羅針盤ひとつ、あとはパイロットの技倆がものをいう。従って戦闘機乗りには高度の航法技術、戦闘技術、射撃技術——この三つが要求された。加藤はいずれも抜群。しかも、「戦闘機部隊長たるは三軍を叱陀する将帥たるよりも困難」といわれるが、かれにはその指揮能力があった。たゆまぬ訓練によって会得していたのである。 〔用意周到な男〕  加藤は用意周到な指揮官だった。 「勝負は刀が鞘の中にあるときに決まる」  つねづね部下たちにそう教えており、機体整備の万全、天候の観測、往航復航と戦闘時間の計測をおろそかにしなかった。 「指揮官たるものは部下を死なせてはならぬのだから、どんな作戦の場合も三案までは考えておかなければ」  という主義でもあった。前出の洛陽上空での空中戦で味方機を一機失ったおりも、かれは「いかなる戦果をあげようとも、川井軍曹機を失ったことは、それにかわるべき何ものもない」と自分を叱っている。  敵の出方を分析して、一案、二案、三案のどれかで、味方の犠牲をゼロにして応戦したいのである。  それが「鞘の中」にある状態だった。  昭和十六年暮れの太平洋戦争開戦の直前、南方進攻にそなえて陸軍の各航空部隊は、台湾、広東、海南島、仏印(現在のベトナム)に五百機が集結させられた。本土からはむろんのこと、満洲や中国各地の基地より飛来した。  ところが、あいにくの天候不良だったり、整備が万全でなかったりしたため、五百機のうち一割が途中で墜落事故をおこしてしまった。大損害である。だが、加藤「隼」戦隊だけは集合地の一つ、仏印のフコク島基地に無傷で到着している。  これなども加藤隊長が整備や天候に対して用意周到であったためである。そして十二月八日の開戦当日、かれらは、もっとも困難とされた山下奉文兵団をマレー半島に敵前上陸させる三十隻の輸送船団の掩護任務についた。  加藤隊は「隼」が三十機、これが九機ずつの三個中隊と戦隊本部に編成されていた。ほかに整備兵や看護兵らが二百名。のちに変わるが、当初どこの前線基地へもこれで移動していった。だから加藤は現場のリーダーとしてチームワークをもっとも重視していた。  この戦隊はすでに華北の空で五五機を撃墜破。太平洋戦争勃発と同時にマレー、シンガポール、スマトラ、ジャワ、ビルマの制空権を掌握し、赫々たる戦果をあげてゆくのだが、その存在はほとんど報道されなかった。加藤隊長が撃墜王としてもてはやされることも皆無だった。  陸軍省が作戦遂行のため、その存在を極秘にしていたのではない。加藤自身が新聞社の特派員を避けて、表に出ようとしなかったことによる。その理由は後述するが——とにかく、有名になったのは、戦死して「空の軍神」とあがめられ、映画化されてからのことであった。反対に海軍のほうは、大いに「英雄」をこしらえて国民に喧伝した。 〔兄の感化を受け軍人に〕  加藤建夫は明治三十七年九月二十八日、京都府士族出身の屯田兵・加藤鉄蔵の次男坊として、北海道は雪深い東旭川村に生まれている。家計は裕福だったとは言いがたい。  翌三十八年、四十歳の鉄蔵は軍曹として日露戦争に従軍。旅順を攻略した乃木希典の第三軍にいたかれは、奉天会戦において戦死している。だからまだ一歳だった建夫は、田鶴さんによると、 「加藤は、幼少のころから長男の農夫也《のぶや》の感化を大いにうけた、と申しておりました。親がわりだったんです」  という。  その農夫也は建夫より七歳上、職業軍人を志して仙台陸軍幼年学校から士官学校へすすみ—— 「人間の価値は学問の如何にかへられぬ貴きもの有之候。先輩の人を訪問しても、学問はあっても何となく軽く見える人と、学問は出来ずとも知らず知らず頭の下がる人と有之候。将校となり兵卒を教育する者は特にこの徳が大切に候。常に徳の養成に力を用ひざるべからざる所に御座候。而して前に申すが如く十分のびて苦労した人は自然に徳がつく様に思はれ候間、私もこの決心をしたる次第に御座候。建夫も何れ将校となるべき人に候間、今日より十分この旨を染みこませ今の所十分のばさせ度存じ候間十分御教育願上候」  二十二歳にしてこのように、弟の教育を母親のキミに手紙で指示している。キミは滋賀県出身の屯田兵・藤田安之助の妹であり、建夫も職業軍人になるべく仙台陸軍幼年学校へ進学していた。  その農夫也はしかし、陸軍砲兵少尉として砲工学校に在学していたとき、不運にも二十五歳で流感のため他界してしまった。看病したのは同期生で、のちに陸軍中将となって、A級戦犯として終身刑の判決をうけた佐藤賢了(石川県出身)である。  建夫が陸軍士官学校を卒業して航空兵少尉に任官、平壌の飛行第六連隊に配属になったのは大正十四年秋。そこにイギリスで勉強してきて、日本陸軍独自の空中戦闘方式を研究中の武田惣治郎大尉がいた。武田は「空中戦は日本武道と変わらない。一騎討であり一撃のもとに敵を斃《たお》すべし」と説いており、建夫はかれを師と仰いで、航法、戦闘、射撃の技術を練磨していった。優秀な航空兵将校となって「兄農夫也の分も御奉公したい」一念であったのだ。そうした自分に迷いはまったくなく、趣味は魚釣りとカメラいじりであった。  昭和四年、中尉に昇進していた加藤は、所沢陸軍飛行学校の教官になったのを機に、福岡出身の庄野田鶴と見合結婚した。二人は新婚旅行に出かけたが、その行先はなんと草深い東旭川村であった。自分の生まれ故郷をぜひとも新妻に見せたかったのだ。 〔明野の四天王〕  三年後、加藤は三重県にある明野陸軍飛行学校教官に迎えられた。  ここは戦闘機乗りを育成するところであり、田鶴さんは言う。 「当時は飛行機はかならず墜落する危険な乗りものと思われていましたし、夫が帰宅するまで毎日、気が気でありませんでした。それでも、いちばん幸せな時代でした。あとはもう戦争戦争で、加藤は戦場へいってしまいましたから」  やがて彼女は三児の母親になっていった。  敗戦後、幼かったその子たちを彼女は、女手ひとつで立派に育てあげた。現在、長男は東大助教授、次男が日本航空メキシコ支店長、三男は日産自動車部品部次長である。  明野時代の加藤建夫は、武田惣治郎、青木武三、松村寅次郎とともに四天王といわれ、列強の水準に達する戦闘機乗りを養成していった。この時期、各国とも軍用機の性能は日進月歩であった。  当時、武田惣治郎はこう語っている。 「戦闘機は敵に後尾へ食いつかれると致命傷だが、加藤君を追いかけて背後にまわると、かれはひゅーっと上昇してしまう。飛行機は上昇してある程度までゆくと失速する。そこで追っているほうが昇るのをやめて、旋回に移ろうとする隙ができる。間髪を入れずそこを狙って、急に横転して上方から反撃してくる。この加藤流の特異な戦闘法には何べんやられたかしれん」  日本陸軍がもっとも教訓としなければならなかったのは、昭和十四年五月から四カ月間の死闘となったノモンハン事件である。日本は九七式戦闘機、ソ連軍はイ16戦闘機をくり出して、結果は日本が三六一機、ソ連側は一三〇〇機を失っている。 「わが空軍は大勝した」  と陸軍首脳は、数字だけを比較してそう判断したが、じつはその三六一機は満洲に配備していた航空兵力のほとんどであり、ソ連は一三〇〇機を撃墜されてもなお余力が充分に残っていた……その点を考慮に入れていない。かれらの生産力を甘くみたのだ。  地上軍はどうかというと、ジューコフ元帥の近代的機甲旅団にじゅうりんされて、日本軍の戦死者は、七千七百名で一個兵団が全滅。戦車は在満戦車部隊の約半数の四〇台を失った上に、一千名を捕虜にされてしまっている。停戦協定を結んだもののこの国境紛争は、あきらかに日本陸軍の惨敗だったのだ。驚くべきことに関東軍の砲兵隊は、日露戦争当時の野砲しか装備していなかった。  にもかかわらず陸軍は、旧態依然として「大和魂があれば勝つ」と過信するばかりで、予算をケチっては近代化を放置していた。 〔アメリカと戦争したら大変だ〕  この時期——「空の宮本武蔵」となって華北の制空権を掌握していた加藤建夫は少佐に昇進、ヒトラーの第十一回ナチス党大会に国賓として出席する寺内寿一大将(戦後、シンガポール捕虜収容所で病死)が渡欧するさい、「とくに実戦の経験が深いものに独伊の実状を研究させたい」と言いだして、戦車隊の金田長雄少佐と加藤を随員にしてつれていった。  一行がベルリンにいた九月一日、ドイツ軍がポーランドへ進撃、メッサーシュミット戦闘機やユンカース急降下爆撃機が活躍する第二次世界大戦が勃発した。加藤は空相ゲーリングに紹介され、それら新鋭機を見学させてもらったりした。戦車や戦場跡などをカメラに収めてきており、何冊ものそのアルバムがいまもなお田鶴夫人の手もとにある。  一行がアメリカ経由で帰国したのは、すでにノモンハン停戦協定が成立していた同年十一月半ばであった。加藤は部隊長としてこんどは広東へ出征し、南中国の制空権確保のため戦わねばならなかった。  それから二年後、太平洋戦争がおこるわけだが、田鶴さんが証言する。 「支那事変(日中戦争)には加藤は、気軽に出かけてゆきましたが、太平洋戦争に出陣するときは身辺の整理をしました。死ぬ覚悟をしていたのでしょう。ヨーロッパとアメリカを見てきて、負けるとは申しませんでしたが、『アメリカと戦争したら大変だ。あの物量は容易なものではない。生産能力はすごいものだった』と言っておりましたし、そのことは報告書にして寺内大将にも提出しておりましたね」  しかし、命令とあらばかれは、莞爾《かんじ》として出陣しなければならなかったのである。  これは連合艦隊司令長官だった山本五十六の、有名なエピソードに共通している。山本も負けるとは言ってないが「一年間は海軍は何とか戦えるが、あとは保証できない」という意味のことを提言している。だが、天皇の御前会議は開戦のゴーサインを出して、海軍にはハワイ真珠湾を、陸軍にはマレー半島のコタバルを奇襲させたのである。  日本軍はこれまでに日清、日露、満洲事変や日中戦争でも、いずれも奇襲攻撃をかけさせてから宣戦布告をしてきた。だから太平洋戦争もこの戦法で成功すると思ったのだ。  山下奉文兵団のコタバル敵前上陸を成功させた加藤「隼」戦隊は、速攻につぐ速攻で附近の英軍航空基地を徹底的にたたいた。マレー航空撃滅戦である。  ハワイ真珠湾奇襲につづいて、イギリスの不沈艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスをマレー沖に葬った海軍艦上攻撃機の大戦果は日本国民を有頂天にさせたが、陸軍の加藤建夫らは「裏方」に甘んじていた。 〔加藤式チームワーク「三つの鉄則」〕  仏印のフコク島基地にきてからの加藤は、いっそうチームワークを大事にし、三つの鉄則を実行させた。  第一に「任務必達を第一義にすること」  たとえそれが地道な任務であっても遂行する。こちらの敵を潰滅すれば海軍航空隊を上回るめざましい活躍になる、とわかっていてもスタンドプレーはやってはならぬ……このように隊員たちに徹底させたのだ。  第二に「平時の訓練の成果を発揮せよ」  これはひと口に言えば、リラックスせよということである。いざ決戦となれば、パイロットはむろんのこと、地上整備員たちも力んでしまい、かえってその緊張感が判断力や行動力をにぶらせてしまうためである。  かれは私的制裁も禁じた。部下の態度がわるいと叱っては上官がぶん殴るのは、当時の軍隊では常識となっていたが、たとえば整備兵の場合は、殴られた恨みがあればついそれが整備作業をしている場合に出ないとは限らない。大事なボルトの一本を締め忘れることもあり、空中戦のさなかにそのため故障したりする結果をまねいてしまう。用意周到の加藤は、そういう点にも神経を使っているのである。  第三は「個人の功名手柄をいましめる」  中国戦線のころの加藤は、愛機のエンジンカバーに赤い鷲を並べて描かせていた。撃墜した機数であり、勲章のごとく見せびらかしていたのだ。ほかの戦隊でもやっていたことだが、撃墜できたのはおのれ一人の技倆ではない、徹夜で機体を点検してくれた地上整備員たちの努力のおかげである。炊事当番や通信兵の眼に見えぬ協力のたまものである……というふうに考えを改めさせたかったのだ。  だから新聞社の特派員がやってきて、 「あなたは何機撃墜しましたか?」  と質問しても加藤は、 「わたし個人ではなく、加藤戦隊の戦果は十五機です」  部隊名でしか発表せず、撃墜王という名のスターをつくらなかったため、いっそう地味な存在になってしまうのだった。 「東洋のジブラルタル」といわれたイギリス軍最大の要塞であるシンガポール攻略では、加藤は「戦いの勢い」を重視した。いかなる戦場においても、戦闘には勢いというものがあって、これがないとなかなか勝利には結びつかない。味方の損傷も大きい。  そこで加藤は夜間攻撃の第一撃をあたえて帰還すると、燃料と弾薬を補給して、息もつかせず第二撃を加えるため、再び出撃していった。第一撃と第二撃に間隔をもたせると、敵は陣容を立て直してしまう。第一撃で混乱しているところへ、第二撃の痛打をあびせるほうがより効果的だし、そうすることによって押せ押せの勢いをつけるのである。  また、クアラルンプール攻撃のさいには、高度四千メートルの雲上飛行をして隠密行動をとりながら南方へ迂回し、雲を突きぬけて急降下、飛行場で翼を休めている敵機に機銃掃射をあびせて炎上させた。  対空火器がいっせいに火を噴く。しかし、南の方角から強烈な太陽光線を浴びながら突入してくるので、射手はまぶしくて照準できない。これもまた「空の宮本武蔵」戦法だ。  重層疎開体形戦法を編み出したのも加藤隊長である。  第一編隊中隊を上位からの、有利な態勢で敵戦闘機群のなかに突入させ、混乱したところを第二編隊中隊が攻撃する。加藤隊長編隊は戦闘圏上空にあって全戦局を監視し、臨機応変で戦闘圏から脱走しようとする敵機を個々に捕捉する。同時に、味方中隊への敵機の上空よりの急襲を未然にふせぐ役割をはたすのである。 〔休むことなき戦い〕 「シンガポール攻略に勢いをつけるには、同時にスマトラ島パカンバル飛行場の徹底攻撃も敢行し、落下傘部隊を降下させて占領するのが得策です。パカンバルには残存の英軍および米軍戦闘機ホーカーハリケーン、スピットファイヤー、トマホーク、バッファローなど約百機が集結しており、これを潰滅しなければシンガポールヘの地上部隊の進撃も苦戦させられます」  と司令部に進言し、自らその百機と交戦する任務を、加藤はひきうけている。  この作戦は昭和十七年の一月早々から開始されており、加藤「隼」戦隊の行動は次のようになっている。  一月十二日、十三日、十五日、十七日はシンガポール攻撃。戦果は四機撃墜、五機炎上、一機撃破、そして重爆隊掩護。  同月十七日、パカンバル攻撃。戦果は二機炎上、三機撃破。  同月十八日、二十日、二十一日、二十三日は再びシンガポール攻撃。戦果は二十四機撃墜、重爆隊掩護。  二十三日から二月五日までは連日パカンバル攻撃。戦果は十一機撃墜、重爆隊掩護。  二月六日、七日、八日はパレンバン飛行場攻撃。戦果は七機撃墜、二十一機炎上、五機撃破。  檜与平氏によると—— 「このように連日、空中戦をやっているものだから加藤隊長も疲れはて、肋骨が見えるほどに痩せこけ、眼は充血して茶色になっていました。とくに七千メートルの高々度での空中戦は、酸素マスクがないし、息苦しくてものすごい疲労感が残るんです」  物量と兵員不足がこの結果を生むのだ。  落下傘部隊がパレンバンに落下、奇襲したのは昭和十七年二月十四日である。  加藤「隼」戦隊は、この落下傘部隊をはこぶ大型輸送機の編隊を掩護してゆき、迎撃しようとしたハリケーン一機を遁走させた。  安堵した一瞬、べつの方角からスピットファイヤーの五機編隊が急上昇してくるのを発見。まんじ巴の空中戦を展開して一機撃墜、他を遁走させた。  翌十五日、シンガポールが陥落。パーシバル将軍の英軍は降伏したが、この日も第二落下傘部隊がパレンバンヘむかった。加藤戦隊はむろん掩護したが挑戦してくる敵機影なし。  主戦場はジャワ島に移った。今村兵団のジャワ進攻作戦を助けるべく、加藤戦隊は基地をパレンバンにすすめ、ジャワ防衛のオランダ軍を襲撃した。  その第一回は二月十九日、バイテンゾルグ飛行場がターゲットである。地上で待機していた大型機十六機、小型機四機を銃撃して、うち大型機九機を炎上させた。挑戦してきた九機のリパブリックP43と空中戦を演じ、七機を屠った。  このP43は、トマホークP40では「隼」に太刀打ちできないため助っ人としてきていた米空軍自慢の新鋭機であった。しかし「戦いの勢い」に乗っている加藤戦隊には、それすらも敵ではなかった。  加藤戦隊の別働隊はバンドン基地を急襲、P43を十機、ボーイングB17を二機葬って凱歌をあげている。この日、加藤建夫は中佐に進級。  パレンバン基地のラジオでこのことを知った檜与平中尉は、はやく伝えようと思って部隊長天幕へ駆けだしていったが、日ごろから自分の功績をほめられるのを好まぬ隊長であるので、天幕のまわりをうろうろしただけで中にははいらなかった、という。  ジャワ島上陸作戦が完了後、ビルマ戦線の制空権をめざして加藤は、測風気球《ビロット・バルーン》をあげての高空気流の観測と、夜間航法の研究をやっている。昼間の制空任務のあと、夜中に愛機を飛ばし、熱帯夜の特殊気象にチャレンジするのである。  ビルマと雲南省をつなぐ山岳地帯に、中国空軍が前進基地を設け、そこから米英軍事が発進しているため、これを破壊するためだった。  爆撃機ならば夜間、高空航法で飛び、夜明けに目標に到達、寝こみを襲うことは可能だが、そうした遠距離進攻は戦闘機にはできない。それを加藤はあえて可能にしたいのであり、かれは独自の航空計算盤と角度計を操縦席にとりつけた。これで部下たちの編隊を誘導してゆこうというのである。  ローウィン基地を三回にわたって痛打したことは、地上部隊のマンダレー進攻を容易ならしめている。だが、日本軍の海・陸・空にわたる優勢もここらあたりまでだった。前述のように英軍爆撃機を追跡中の五月二十二日、ベンガル湾上空において加藤は戦死。二週間後の六月五日、ミッドウェー海戦で日本海軍は大敗し、戦局は逆転されてゆくのである。  加藤の英霊はいまもなお、ベンガル湾の海底深くに眠ったままである。 〔戦闘は気力である〕  加藤建夫の戦果の要因を、檜与平氏はこう分析している。 「第一には、かがやかしきパイロットたちのかげに隠れた整備兵その他が全員、縁の下の力持ちになってくれたからでしょう。全員が〈加藤教〉を信じておりましてね、この隊長のためならという気になって、徹夜徹夜の整備にもよく耐え、つねに機体を絶好調にしていてくれたからです。  第二には、加藤隊長は命令でうごかすのではなく、部下たちを心でうごかした指揮官だったということです。真心のない整備はダメだ、というわけで全員の不平不満を排除し、一丸となって目的にむかって進ませた。叱る場合でも、ミスしたこと、その一つだけを叱っていました。『だからお前は何をやらせてもダメなんだ。先週もこんなことがあったではないか』というふうに欠点を掘りおこしていかない。  第三にはやはり、隊内に撃墜王をつくらなかったことだと思います。個々の功績にせず、全員の一致協力のたまものにしたことでしょう。そして、部下たちを信頼してよく任務を与えていました。そうすると部下たるものは、それほどまでに隊長はおれを信用してくれているのか、と感激したくなるものです」  加藤にはおもしろい奇癖があった。  訓練中に空中分解したり、接触事故があったり、戦場でも不吉なことがあったりすると、かれは「悪い流れを変えさせなくちゃ」と神官をよんできて厄払いしてもらうのだ。宗教を信じているというより、すばやく気分転換をはかりたかったのだろう。 「戦闘は気力である。気力は強壮な体力から生まれる」  平時におけるかれは、これをモットーとして部下たちに、中隊対抗の野球、テニス、マラソン、相撲などを競わせた。自分が先頭に立って、上下の差別なくやった。  これには「戦闘は気力」のためばかりではなく、チームワークをよくすること、スキンシップの効果があること、無駄使いする時間を与えないこと……この三つのメリットもあるのだった。  無駄使いさせないことでは、家族への送金を大いに奨励した。将校の場合だと八十五円の月給のほかに、九十円の航空加俸(危機手当)がつくので、歩兵や砲兵の将校よりは裕福である。そのためつい浪費しすぎるし、夜は外出して酒を飲んでくることにもなる。  それでは航空兵としての勉強がおろそかになるので、加藤は毎月九十円は天引きして、それぞれの家族へ司令部のほうから送金してもらうのだ。両親や家族はよろこび、本人は深酒しなくなって勉強する……つまり、一石二鳥なのである。父と兄を幼いころに失った加藤の心情がよくあらわれている。  かれは身なりが質素であった。将校以上になると、飛行帽、飛行服、白絹のマフラーなど私物を使って伊達男ぶったりするが、かれだけは官給品で満足していた。  だからといって「お前たちもおれを見習って質素になれ」と言いたいのではない。むしろ部下たちのほうが「おのれにきびしい人なのだなあ」と尊敬してしまうのである。  新品の「隼」が基地へ送られてくると、部下たちに与えて、自分は古いので満足している。公平無私だった。  原則をくずさない。たった一人の部下を連絡員として出発させるときでも、たいていは「では頼むぞ」ですませがちだが、加藤は違う。ちゃんと威儀を正し、服装をととのえ、挙手の礼をしてその発進を見送る。定められたことは、疲れていても定められているとおりにやり、やらせるのである。それと、航空部隊はいつも死と背中あわせであり、常に正式の礼で送り出してやらなければという思いが、かれにはあった。 「戦果を削る」というのは、どこの部隊でもなかなかできることではない。大本営発表のように過大でなくとも、少しでも戦果は多く報告したがるものなのだ。が、加藤はそれをやらない。撃墜しても確認できなかったものは「不確実」にする。  ビルマのローウィン基地を急襲したとき、滑走路に爆撃機一機、戦闘機二十二機があった。この戦果をかれは「炎上十四機」と司令部へ報告させようとした。 「撃破が数機あるではありませんか」  不満そうな顔になる部下に対し、 「確実炎上は十四機だ。確実なものだけを報告すればよい。よしんば報告せずとも、確実にそれだけ余分に敵戦力を減殺しているのならば、それで満足すべきじゃないか」  と言い、とりあわなかった。余計な戦果で、参謀が誤った判断を下すことをかれはおそれてもいた。 〔人間的なリーダーとして〕  前線基地まで日本から連絡参謀がやってくると、加藤は部下たちに、 「三十分以内に手紙を書け、頼んでやる」  と声をかけてまわる。連絡参謀は折返し本土に帰ってゆくので、部下たちの親兄弟や妻子への手紙を托す。本土の郵便ポストに投函してもらうほうが早く届くからだ。  食事のさいの加藤は「待たせた、待たせた、すまん」と言いながらその大柄な身体を折り曲げ、小走りで駆けてくる。隊長が席についてからでないと、部下たちは箸をつけるわけにはいかないためである。  が、待たせたというほどの時間をおいてやってきたわけではないのに、かならずそう詫びるのだ。何でもないことのようだが、これがまた部下たちに、たまらなく親しみのある上官に感じられるのである。  このように、加藤建夫の人間的にすぐれたリーダーとしての逸話や美談は、数かぎりなくある。  ぼくは軍国主義も軍人も大嫌いだし、軍国少年にされていた時代を憎んでいるが、加藤建夫個人の修練と人格には脱帽しており、とりわけ最後に檜与平氏が語ってくれたエピソードには、胸が熱くなるのをおぼえた。これぞ指揮官たるものの姿だ、と思った。 「わたしが週番士官になったときでした。役目ですから夜中に兵舎をまわろうとしたら、加藤隊長が起きておられて、こう言われるんです。『兵たちのタオルを一つ一つさわってまわってくれ』と。みんな寝ているベッドの枠木に、自分のタオルを干しているんです。濡れてないのはその晩、風呂にはいっていない証拠になるわけです。はいらなかったのは風邪をひいているせいではないか、病気であるのに内密にして勤務しているのではあるまいか。もし、そういう兵たちがいれば、薬を飲ませてやってくれ、と加藤隊長はおっしゃるのです」 [#改ページ]     小林|一三《いちぞう》/岩下|清周《きよちか》 [#ここから5字下げ] 男にとって「良き師」とは——実業界の巨人が学んだ「生きた経営哲学」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔強靭な精神の持ち主・岩下清周〕  山梨県は韮崎の絹問屋「布屋」の息子である小林一三が、福沢諭吉の慶応義塾を卒業し、三井銀行東京本店に入社したのは明治二十六年四月、二十歳のときである。身分は十等席で秘書課勤務、サラリーが十三円だった。食パン一斤が六銭、米一升六銭七厘、理髪代四銭、清酒一升十五銭のころだ。  当時、専務理事として三井合名の実権をにぎっていたのが中上川彦次郎。入社まもなく小林は大阪支店に転勤させられ、金庫係で身分は手代五等になった。大阪支店長は慶応の先輩の高橋義雄である。  二年後、日清戦争が終わってすぐの明治二十八年九月、高橋は東京・日本橋の三井呉服店(のちの三越)の支配人として上京したため、後任として赴任してきたのが岩下清周だった。  岩下は長野県松代の貧之士族の出で、東京・築地の英学塾(立教大学の前身)に学び、三井物産に就職した。ニューヨーク支店長、パリ支店長を歴任してのち、明治の元勲で三井財閥の顧問でもあった井上馨にすすめられて三井銀行副支配人になり、中上川に期待されて大阪へきたのである。小林一三より十六歳年長だ。  日清戦争のとき、大阪が軍需基地になったことから、関西経済界は軍需景気に沸き返った。空前絶後といわれた二億五千万円の軍事費のうちの八千万円は、軍事公債によってまかなうことになり、三井銀行も大量に引き受けさせられたその公債を大阪支店に保管しておいた。着任した岩下が二十二歳の小林に、 「むかしの千両函を知っているか、ぼくはもっとでかい百万両函をつくるつもりだ」  と言って驚かせた。そして、実際に軍事公債の束を入れて蔵の中に飾っておくその百万両函を、三個も製作させたのだ。 〈この人、大きなことをやりそうだな〉  それが小林の第一印象だった。  高橋義雄は役者のように和服で出勤し、毎日、東京の中上川彦次郎に報告書を送っては鼻息をうかがっていたが、岩下は欧米にいただけにビジネスマンらしく洋服を着てくるし、専務理事への手紙など書きもしない。取引先を拡張するため、本店が制限しているのも無視して巨額の貸出しをやる。そのため中上川に叱られるが、それも黙殺するというふうであった。強靭な精神の持ち主だ。  某日、貸付課抵当係の小林は、高麗橋にある支店長社宅に呼びつけられた。高橋がいたころからここの座敷には、抵当流れの書画骨董が飾ってあった。それらを岩下は、ことごとく銀行の倉庫にはこんでしまえという。 「お気に召さないんですか?」  と不思議がる小林に、 「ぼくにとっての大阪は仮住いだから、こういう装飾品などいらんのだ」  がらくたを見るように岩下は答えた。 〔「文学青年」小林一三〕  いずれ東京にもどるのだ、という意味のこの一言は、小林をうれしがらせた。  だからといって、岩下に感服したわけではない。大物になりそうなビジネスマンでも、格別りっぱには見えないのだ。  なぜならば、小林一三の野心は銀行マンになることではない。学生時代にすでに郷里の山梨日日新聞に『練絲痕《れんしこん》』という変愛小説を連載したり、歌舞伎の劇評を書いたりしており、自信はないが小説家になりたがっている文学青年なのである。  小説家になるには新聞社に勤めるほうが早道だと教えられ、都《みやこ》新聞(現在の東京新聞)に慶応を出てはいるつもりが実現せず、その気はなかったが三井銀行に入社したのだった。  小説家になるには恋愛も経験しておかなくちゃ、というわけで入社が決定してからも熱海温泉で見かけた、英語がペラペラのハイカラな美女に一目惚れしてしまい、彼女が湯ぶねにはいっているときの白い裸身を見たりする。  ついには東京まで追いかけていって、彼女の家のまわりをうろつく。そのころ上毛新聞に『お花団子』と題した時代小説を執筆しており、のちに文豪となる田山花袋も同紙に現代物を発表していた。つまり、現実と小説の世界をごっちゃにしたみたいな生活をしていて小林は、三井銀行へは三カ月間も出社しなかった。「新入社員のくせにだらしないやつだ」とニラまれたのは当然である。  小説を書くようなのが有能なビジネスマンになれるわけない……ことは昔も今も変わりない。文学にとり憑かれてしまうと、会社にいるときでも小説のことしか考えない……ことは筆者自身も経験しているし、「課長に出世するよりも一編の傑作を書くほうが大事」なのである。当時、森鴎外、島崎藤村、国木田独歩らが新進作家だった。  だから大阪に転勤させられても彼は、どういう新しい小説が世に出てくるかが気になり、眼はいつも東京のほうへ——中央文壇に向けられていた。月収を得るため嫌々ながら勤めているにすぎず、夜はお茶屋遊びと観劇、小説好きの仲間と芸術論をやる。文学をやるもののみがすばらしく、大物政治家にも軍人にも商人にも興味なかった。  というわけで、岩下清周との出会いも、小林にすればどうでもいいことだった。〈世の中にはこういう仕事の鬼みたいなのがいるんだなあ〉と見物していたにすぎない。そして、たった一点だけ、いずれは東京にもどるという岩下と、自分が東京に帰って文壇にデビューする……その「仮住い」意識だけは共通していると思うのだった。  岩下にしても、小林の存在は路傍の石にすぎない。小説だの芝居だのにうつつを抜かしている軟派な青年にはロクなのはおらず、小林などどこにでもいる平社員、目をかけてやる考えはさらさらなかった。 〔岩下の冷やかな眼〕  小林一三には、好きになっていた女に対してさえ、「仮住い」意識があった。  俳諧の宗匠の養女で丹沢コウという、十五歳の愛人ができていた。明治二十九年、小林が二十三歳のときであり、彼女のことを「ういういしき丸髷を紫縮緬のお高祖頭巾《こそずきん》に包んで、外出するときは昔風の浮世絵を見るように愛らしかった」と書いている。  それなのに、この美少女を妻にする気はなかった。〈文士になるために、いずれは東京にもどらなければ〉の夢があるし、彼女と結婚して子供ができれば、大阪にうずもれた一介のサラリーマンで終わる……そんな焦燥感があるのだった。さりとて愛らしき彼女と別れる気にはなれないのである。  岩下清周のほうは「仮住い」ながら、大阪財界の雄となりつつあった。中上川彦次郎はそれをよろこばず「岩下はやりすぎて何をするかわからぬ」と信用せず、監視させるため腹心を大阪支店へ送り込んだりしていた。  それでも岩下は平然と、思ったとおりのことをやってゆく。日清戦争後もいっそう拡充しつつある軍艦建造の川崎造船所、軍需品供給事業で伸展する藤田組などに、どしどし資金を融資する。川崎造船所は美術品蒐集家としても有名な松方幸次郎が社長。藤田組は明治維新の長州の勤皇志士から政商に転じた藤田伝三郎が経営している。  中上川は徹底して「ふところが深い」大阪財界人やら商人たちを嫌っている。彼が三井系の山陽鉄道の社長だったときに、大阪財界人たちの策謀で社長の座を追われてしまった——それ以来、坊主憎けりゃ袈裟《けさ》までなのであり、大阪財界人を太らせている岩下が、ますます不愉快な存在に見えてくるのだった。余談ながら、中上川の娘が、テナー歌手の藤原義江と恋愛して騒がれた人妻の宮下あき——のちの藤原あきである。  鉄材商「津田商店」が岩下に、川崎造船所と取引契約済みであるので援助してほしい、と乞うてきたことがあった。一万円相当の津田の不動産を三井に買収してもらい、当座振抵当にするという。その購入やら登記のため小林が奔走させられた。  川崎造船所の津田への支払いが遅延して、巨額の当座貸越になったりする場合もある。すると、たちどころに本店から譴責される。 「いつものことだ、本店のやつらは経済界を育てようとはせん守銭奴だ」  と岩下は平然としているが、若い小林はハラハラさせられどおしだった。眠れぬ夜もあった。柳行李に詰めた何十万円かの札束を、広島支店まで送りとどける現金輸送の仕事もやらされた。強盗団に奪われそうになった場合は、命がけで守らなければならない。  そんな小林を冷やかな眼で見て岩下が、 「どうだ、小説本を読んでいるよりスリルがあっていいだろう。世の中のことが、へなちょこ文士が書いた芝居や小説みたいにいってたら、苦労はないわな」  と笑っていた。文芸なんぞは女子供のためにあるものなんだ、と暗に仄《ほの》めかしているのだった。小林を見ている岩下は、池で溺れかけているわが子さえも助けてやらず、淵に立って冷淡に見物している……そんな目つきをしていた。飲みにつれていってもくれない。  そういう岩下なのに、関西財界では絶大の人気があった。山本達雄を新総裁にした三田派と対立し、日本銀行から去らねばならなかった東大派の鶴巻定吉、渡辺千代三郎、町田忠治ら錚々《そうそう》たる連中が岩下を頼って来阪しているが、かれらのことごとくを大物に育てあげていった。  のちに鶴巻は大阪市長になり、渡辺は大阪瓦斯社長に、町田は山口銀行総理事から農林、商工、大蔵大臣を歴任し、昭和二十年の敗戦後には日本進歩党総裁にもなっている。また三井物産のリーダーとなってゆく山本条太郎、安川雄之助らは、中之島の三井物産大阪支店にいて、岩下とは親友であった。のちに「平民宰相」といわれるようになる原敬を、大阪毎日新聞社長に推挙したのも岩下である。 〈岩下さんの魅力とは何なのだろう?〉  冷たい眼で見られながらも小林が、考えはじめたのも東京から続々と頼ってやってくる、それらの人たちを見たときからであった。  しかし、時すでに遅し、岩下自身が三井銀行から去りゆく日がくるのである。 〔岩下の巻き返し——北浜銀行の設立〕  三井各支店に対して貸出金を極度に制限する中上川専務理事に、 「銀行は産業界に活をいれるためにある。私利私欲に走らず、すこしは欧米の金融界を見習うべきである」  という意味のことを岩下が再三陳述するものだから、それが中上川体制批判とうけとられた。中上川とすれば飼い犬に手を咬まれた思いであり、明治二十九年夏、横浜支店長への転勤命令を発した。あきらかに左遷である。  従順に横浜へ移ってゆくかに見えた岩下は、そうではなかった。辞令をうけとるのと引き換えに、中上川へ辞表を送りつけ、電光石火の早業で株式界の金融機関である北浜銀行設立を企画した。背後にいたのが大阪財界のボス・藤田伝三郎だった。  その岩下と生死をともにしたくて、三井銀行大阪支店から去るものもいた。  小林一三は呆然となった。  岩下の行動は「三田の巨頭」中上川への、あくなき抵抗であった。日本銀行からの脱退組である鶴巻、渡辺、町田ら東大派を庇護したのも、新総裁山本達雄をバックアップしている中上川への面当てだったのであり、権力者に挑戦して岩下は、もう「仮住い」のつもりはなく、大阪人になりきろうとしているのだ。小林は眼がさめたような顔になった。 〈勝負すべきときには敢然と勝負する。これが男というものの生き方だ〉  そういう男を身近にし得たことの幸福感を、ひそかに感じはじめたのだった。  新支店長には上柳清助が選ばれ、のちの「三井の大番頭」で大蔵大臣や商工大臣にもなる池田|成彬《しげあき》が支店次長として東京からくだってきた。小林は上柳に決断を迫られた。 「きみは岩下君の新銀行にゆくのか、ゆかぬのか、態度をはっきりしてもらいたいね。店内が動揺して迷惑するんだ」  きみも岩下派だ、このさい追放してやる、と言われているのだ。  小林は、返答に窮した。「北浜銀行にくるなら貸付課長にしてやる……そう岩下さんが言ってくれているぞ」ということは耳にしていた。しかし当の岩下からの声は、直接にはかかってきていない。自分自身でも三井に残っていたいのか、北浜銀行へ走りたいのか決断がついていないのだ。  岩下にじかに「ぼくを使ってください」と哀願してみても例によって、溺れるわが子さえ助けてやらぬ眼をされる……そんな気がする。北浜へゆけば自分も大阪人になるほかはない。おれはやっぱり小説家になりたい……その未練もあった。  で、どちらにするんだと上柳に詰め寄られても小林は、 「……いえ、ぼくは残らせていただきます。とくに岩下さんに、目をかけられていたわけでもありませんので」  額の冷汗を拭きながら口ごもるしなかい。そのくせ内心では、自分にじかに声をかけてくれぬ岩下を、大いに恨んでもいるのだ。  事はそれだけでは済まなかった。小林は貸付係から預金係に配属がえになった。第一線からおろされたわけで、だれが見ても差別である。侮辱である。岩下への当てつけだ。  大阪支店は高橋義雄が、全国の銀行にさきがけて十七、八歳の女子行員を十名採用したことでも有名であった。しかし、その女子行員たちまでが、左遷されたおれを気の毒がっているにちがいない……そう思って小林はやりきれなかった。肩身も狭くなる。 〔薄志弱行の日々〕  男らしくありたくて小林は決心した。  左遷の屈辱には耐えられず、岩下からのお呼びがかからずでは、もはや大阪にいる気はしない。愛人のコウともいさぎよく別れて、東京へひきあげることにしたのだった。  新橋駅に降りたその足で、三越呉服店理事の高橋義雄をたずねた。三井銀行本店に転属させてほしい、と哀訴したのである。  ところが、そういう身勝手なわがままが許されるはずはなく、名古屋支店勤務にされてしまった。小林は涙をかみしめて名古屋へ向った。名古屋での唯一のなぐさめは、コウがときおり大阪から逢いにきて、数日泊っていってくれることであった。  北浜銀行は隆々たるものになっていった。  トヨタ自動車の創業者である名古屋の、豊田式織機の豊田佐吉に会社設立費として五万円を融資したり、キャラメルを発売した無名の森永太一郎を援助して森永製菓の基礎をかためさせたり、一介の商人だった大林芳五郎を応援して建設業界の雄となる大林組を育てたのも、北浜銀行の岩下清周であった。彼は理想とする、欧米的工業立国を実現させたい一心だったのだ。  日露戦争後には、藤田伝三郎とは同志である総理大臣桂太郎に、満洲進出をすすめられて岩下は、合弁事業である営口水道株式会社を設立。満鉄設立の監事もひきうける一方で、東京に万歳生命保険会社を創設する。  それなのに小林は≪名古屋にいた時代、二十五、二十六、二十七歳と足かけ三年、社交、信用、そして出世、およそ平凡の俗情に妥協しつつ、私の恋愛至上主義は幻のごとく消えたり浮んだり、まことに頼りない、薄志弱行に一日一日を送った≫と自伝に書きしるしている。岩下はもはや天の上の人である。  その岩下から突然の手紙がとどいた。 「何日その地へゆく、これこれの連中を招待したいから香雪軒に約束してくれ」  とある。宴会場のセッティングを依頼してきたのであり、 〈天の上の岩下さんは、おれのことをおぼえていてくれた!〉  そのことに小林は感激した。 〔逃げた花嫁〕  当日、岩下を小林は、名古屋駅まで出迎えにいった。  香雪軒での名古屋の知名士らを招待した宴会が終わったあと、岩下が内ポケットから一葉の若い女性の写真をとり出して、 「この写真の婦人、無理にはすすめないよ」  そう言いながら小林に手渡した。  正式に結婚させて岩下は、小林にやる気をおこさせ、大阪に定住する決心がついたときに、目をかけてやるつもりでいるのだった。  内心、小林はうろたえた。じつは皮肉なことに東京の叔母にすすめられ、送られてきているべつの見合写真を所持していたからだ。  岩下がすすめるその見合の相手も東京だったので、二葉のそれをカバンにいれて小林は上京した。見合をすませたあと彼は、名古屋へではなく大阪へゆかねばならなかった。名古屋支店長から大阪支店長に栄転していた平賀敏が岩下と親しく、小林を大阪支店ヘカムバックさせてくれたのである。  叔母がすすめる相手は、美人ではないが、感じのいい下町娘だった。岩下のほうの女性とも別場所で見合し、どちらかにすることができるが、「この下町娘をもらおう」と即決した。岩下のほうの女性と見合しても、断わりたくなった場合に、かえって失礼になると心配してである。それに彼は気がよわくて、コウとも手を切ってはいなかったのだ。  下根岸の叔母の家で祝言をあげた小林は、新妻をつれて大阪へくだっていった。  これが新婚旅行を兼ねていた。  小林が新妻をつれて大阪支店にもどってきたことは、すぐにコウに知れた。「コウが泣いている」ことも耳にした彼は、暑中休暇をとって新妻には内緒にして、コウと有馬温泉へ遊びに出かけた。温泉宿でも悄然としている彼女に、口づけしてやりながら小林は、 「わたしがわるかった、わるかった」  と詫びつづけるしかない。  三日目の夜、大阪へ帰ってきてコウの家の門口まで送りとどけたが、小林の手をかたく握って放さない。そのまま別れるのはしのびず、彼女の部屋に一泊しなければならなかった。こんな罪なことをしていては岩下さんに見放されて当然だ、と小林は思った。  翌朝、帰宅してみると新妻の姿がない。  小林とコウの関係を告げ口したものがあるらしく、置手紙をして東京へ帰っていったのだ。  クリスチャンだった彼女は、二度と大阪へはきてくれなかった。 「新妻を追い出したひどい野郎がいる」  との噂が大阪支店内にひろがったが、小林はじーっと耐えているしかなく、一年後の明治三十三年十月、彼はコウと正式に結婚した。とはいっても彼女はまだ十八歳であった。 〔またしても左遷〕  岩下清周は小林一三の、女性のことでは何も言わなかった。だが、住友銀行から「副支配人として迎えよう」という話がきたとき、飛びついてゆこうとした小林をたしなめ、こう言った。 「きみはようやく、三井でも認められるようになってきたと思う。いま動いては損だ。三井にいることだ」  口調はきびしかった。なぜ岩下がこのようにムキになるのか、小林自身には理解できなかった。「住友にゆくくらいなら、おれのところへこい」とも言ってくれないのだ。  本店から日本橋の箱崎倉庫主任に命ずる、との連絡があって「栄転だ!」と雀躍して小林は、コウを伴って上京した。ところが、もらった辞令は、主任ではなく次席だった。小林はがっくりきた。またしても屈辱を舐《な》めさせられたのである。やはり、まだ岩下派と見なされているのだ。岩下が恨めしい。  この年——明治三十四年二月、中上川専務理事が四十九歳で病歿、三井の首脳人事は大幅に変わってしまった。〈岩下さんを嫌っていた中上川さんが死んだのだから、おれはもういじめられることはない〉と思った小林は甘かった。箱崎倉庫から本店調査課へ移動させられた。またしても左遷である。  小林は≪調査課は紙屑の捨て場所のように一般から軽視されておった。この紙屑のなかに私は明治四十年十一月まで在勤した≫と、不遇であることを苦々しく記録している。そして、やがて三井は池田成彬が支配権を掌握する時代になってゆくが、その池田は大阪支店次長のころから小林を「女たらしの文学青年」と見ているので抜擢してくれるわけない。  日露戦争さ中の明治三十七年末、三井呉服店は三越呉服店と改称、デパートメントストア化した折に、「三越の副支配人に推薦したよ」と希望を抱かせてくれた友人もいたが、それもなぜか実現しなかった。  九州へ出張させられての帰り、小林は大阪で下車、北浜に岩下をたずねた。  ますます北浜銀行は発展しており、これからは外国銀行なみに外債、公債、社債、証券取引、信託会社の経営にも進出すると、岩下は気宇壮大なことを語った。そのほとんどを小林は聴いていなかった。  泣きたい思いであった。銀行勤めは筆一本で食えるようになるまでの「仮住い」だったのに、ずるずると十三年も勤めてしまった。あなたに「辞めるな」とたしなめられてどうすることもできず、世人をびっくりさせるような小説も書けない。二男一女の父親にもなっている。なにもかも中途半端なのだ。  三十八歳の岩下と出会ったのは二十二歳のときだ。いまの自分は三十五歳だが、あと三年して三十八歳になっても、とても大阪支店長はおろか、名古屋支店長にもなれまい。  そんなこんなの不遇の自分を、父親に訴えるように岩下に哀訴したいのだが、気宇壮大な未来を語るだけで岩下が、すこしも親身になってくれないから泣きたいのだった。 〔十年にわたる人間観察〕  帰京してまもなく、小林一三は三井物産重役の飯田義一に呼ばれた。 「岩下清周さんから話をきいただろう?」 「いいえ、何も」 「手紙も……?」 「何も受けとっていません」  不思議そうに飯田は首をかしげ、要件を告げた。大阪の株式仲買店「島徳」が売りに出されている。岩下さんがこの店を資本金百万円の公債、社債引受業務と有価証券売買をやる会社にすればいいと言っている。いわゆる証券会社というやつで、岩下さんはきみが支配人に適していると推しているんだ……というではないか。 〈わたしを支配人に? 北浜銀行にたずねたときの話は、それだったのか!〉  いまにして小林は思い当った。  島徳というのは、阪神電鉄社長や大株理事長にもなった島徳蔵のことで、鉄道株の買占めでもうけた相場師の井上〈徳〉三郎、野村証券の野村〈徳〉七とともに「大阪財界の三徳」といわれた成金である。 「わたしが支配人に適している、と言われる岩下さんの根拠は何なのでしょうか?」  身を乗りだして小林は訊きかえした。 「十年以上も岩下さんはじーっと、きみを観察しておられたんだね。小林は三井で苦労を重ねてきた。有価証券そのものに対する知識も満点だ。しかも彼は投機には手を染めていない。小説と女は好きだが、相場は好きではない……そんな点を」  小林は、べそをかいているような笑みをうかべた。岩下が観察してくれていたのは光栄だが、才腕のある人物というふうには、まだ認めてくれていないみたいだからである。  しかし、三井銀行を蹴飛ばす勇気が、胸の底から噴きあがってきた。  退職金は四八七五円であった。妻と三人の子たちをつれて大阪へ舞いもどった。  明治四十年一月のことであり、小林は夜行列車のなかで、 〈急ぐことなく十年ものあいだ、ただ観察してくれているだけの、そういう人生の師もいるんだなあ〉  と自分に呟きつづけていた。  巷は日露戦争後の戦勝景気に沸き返っていた。兜町も北浜も狂乱相場といわれ、株価は暴騰につぐ暴騰。二十九歳の鈴久こと鈴木久五郎が一夜にして一二〇〇万円もの株成金になったのはこのときである。  だが、小林が大阪へ舞いもどってきた四十年一月になると「大反動必至」がささやかれはじめていた。そして事実、その現実が襲来した。世にいう「明治恐慌」であり、株価は大暴落して鈴久もスッテンテンになったし、首をくくらねばならぬ株屋や投資家が無数にいた。まさに死屍累々であり、おかげで「島徳」を北浜証券にする計画も頓挫したのだ。  小林はどこまでもツイていない。  妻子をかかえて大阪で浪人暮らしの彼を、飯田義一が阪鶴鉄道株式会社の監査役にはめ込んでくれた。三井物産が同社の大株主だったからである。  だが、すでにこの鉄道は国鉄に買収されることに決定しており、新たに大阪梅田から箕面—宝塚、宝塚—西宮を結ぶ資本金五百万円の、箕面有馬電気軌道株式会社設立の認可をとっていた。京阪電車、神戸電車、兵庫電車、奈良電車、および南海鉄道の電化計画なども申請されており、認可はとったものの箕面有馬電軌の人気はなく、発行株式十一万株のうち、いまだに五万四千株が引受未了株として残っていた。会社設立は無理かもしれない。 〔師のきびしい愛情〕  阪鶴鉄道の本社は池田にあった。そこへかよいながら小林は、箕面有馬電軌の計画線路敷地を徒歩で往復してみた。野と田畑と丘陵ばかりである。人口過剰になりつつある大阪の、今日でいうベッドタウンを建設し、不動産業経営をやれば、電鉄事業のプラスにもなりそうだと思いついた。土地価格の調査もすませた。  そこで岩下清周をたずねて小林は、勢い込んで言った。 「電鉄敷設に要する諸機械および重要な材料を、三井物産から買うことができれば、第一回払込株金一三七万五千円があれば開業できます。わたしはこの仕事をやってみたいと思います。未引受株の五万四千株の引受人を、何とかこしらえていただき、そしてわたしに、この仕事をやらせてください」  岩下の顔が、これまでに見せたことのない、険しいものになった。太い眉をぴくぴくさせながら、こう言い放った。 「きみも三井を飛び出して独立したのであるから、自分の一生の仕事として、責任をもってやってみせると言うことができんのか。やらせてくださいとは何事だ!」  ガーン、と鉄拳で顔をもろにぶん殴られた気がして、小林はのけ反《ぞ》った。彼ははじめて、師のきびしい愛情というものを知った。 「申しわけありません。小林一三、この仕事を一命を賭してやり抜きます」 「どのようにやるつもりだ?」 「沿線には住宅地として理想的なところがたくさんあります。仮に一坪一円で五十万坪買うとすれば、開業後一坪につき二円五十銭の利益があるとして、毎半期五万坪ずつ売っても十二万五千円もうかります。電車が開通すれば、坪五円くらいの値打ちになりましょう。そういう副業を当初から考えて、電車が黒字にならなくとも、その点で株主を安心させうることも一案だと思います」 「未引受株の引受人を、きみの働きでどれくらいつくれる?」 「一万株……いいえ、二万株は何とかしてみせます」 「きみ自身で極力こしらえるんだな。東京へもいって甲州派の財界人たちにも、頭を地面にこすりつけてでも頼んでみることだ。やれるかい、小説家の先生に」 「やります、わたしも男です。勝負します。あなたを追いかけてみせます」  小林の眼はうるみ、声がかすれていた。 「人間は繊細なだけではダメだ。強靭なだけでもいけない。双方を合わせもっておかなければ。きみがいろいろ苦労して強靭になるまで、わたしは待っておったのだ」  岩下が最初にして最後の本心を明かした。  上京した小林は、郷里の先輩である「鉄道王」の根津嘉一郎らに一万株を引受けてもらった。自分でも退職金を注ぎこむだけではなく、借金して株主になった。  それ以上は小林では無理だと岩下は計算していて、残る四万株は北浜銀行で引受けてやった。はじめから岩下はそのつもりだったのだ。  箕面有馬電軌は岩下を社長に、小林が専務取締役となり、岩下を恩人にしている大林芳五郎の大林組が建設に全面協力し、明治四十三年二月に第一期工事の梅田—宝塚間の二十四・九キロが開通、電車を走らせた。  小林は自分で宣伝文を書き、日本最初のPR誌である『最も有望なる電車』を発行するが、田舎を走るガタガタ電車みたいなものだから、乗客も少なくて営業成績は思わしくない。雨の日などは運賃収入がわずか三百円にしかならなかった。  小林はしかし、繊細さと強靭さを巧みに発揮してがんばった。これまた日本最初の二百万円の社債募集を思いつき、これに野村証券の野村徳七が協力した。池田に住宅用地二万七千坪を買ったのをはじめ、関西の子供たちによろこばれる箕面動物園を開園したり、大人たちのための娯楽場である新宝塚温泉をオープンしたりして、沿線を関西屈指の文化住宅ゾーンにつくりあげていった。すべて小林一三のアイデアである。  武庫川べりの新宝塚温泉にパラダイス劇場を新設、出演する十七人の少女たちの宝塚唱歌隊を養成させたのが大正二年夏。これが彼の「文芸作品」ともいうべき宝塚歌劇団へと成長してゆくのであり、箕面有馬電軌は阪急電車へと発展(大正七年)するのだ。大阪駅前に阪急百貨店を開業させたのが昭和四年、五十六歳のときである。のちに小林はこれと同じデパートを福岡市天神町に建設した。親友の松永安左ヱ門にたのまれて、岩田屋デパートを西鉄のターミナル駅にしてやったのである。 〔師が身をもって教えた人生観〕  小林一三の前途は洋々たるものになっていったが、岩下清周は急転直下、没落していった。その原因となったのが、第一次世界大戦が勃発する直前の、大正三年四月におこった北浜銀行事件である。  関西財界の巨頭になっていた岩下には、それをねたむ反対派も多くいた。北浜銀行が資本金を三百万円から一千万円に増資したさいに幽霊株をこしらえたこと。不正融資があってそれがコゲついている事実を、反対派が夕刊紙にその情報を流し、「銀行界最大の不祥事だ」と書かせて告発した。  そのため社会問題になったばかりでなく、預金者たちが「おれの預金を返せ!」と殺到、取付け騒ぎまで発生した。 「欠損額は二八九万八千円しかない」  と、国会議員にもなっていた岩下は発表して辞任したが、検察庁が調査してみると使途不明金もふくめて七八五万円もの巨額になっていた。ごうごうたる非難が集中した。  日銀が救済融資を拒否したため、北浜銀行は臨時休業のやむなきに至った。同行は大阪株式取引所、堂島米商会所の機関銀行でもあったので、現金が引き出せなくて立会さえも停止せざるを得なくなった。  箕面有馬電軌にとっても、岩下の失墜は危急存亡のときとなった。むろん、岩下は社長の座からおりたし、北浜銀行名義の四万株をだれかに肩代わりしてもらわねばならない。  相場師から堂島米商会所理事長に出世している岸和田出身の高倉藤平が、北浜銀行二代目社長に選ばれて「箕面電車におれの子分を重役として入れる」と言ってきた。やむなく小林はそうせざるを得なかったが、四万株は何としても高倉派へは渡したくない。  小林は奔走して日本生命、大同生命、そのほか友人にも三拝九拝して二万五千株を引受けてもらい、自分でもまたまた借金して大株主になった。借金は背負っても結果的には、こうなってよかったのである。  そのことを小林自身も「わたしは実に運がよいと思った。銀行のサラリーマンから会社の重役に昇格した、とは言うものの北銀事件が起らなかったとせば、わたしは世間にある普通の重役と同じように、大株主の顔色とその御意見に従わねばならぬ場合であったかもしれない」と述べているくらいである。  この事件で小林は、より多くのことを学ぶことにもなった。  岩下を苦境に追い込んで痛快がる者。火をつけては消してまわる手合。岩下に恩をうけながらも同穴の貉《むじな》と見なされるのを迷惑がる財界人……さまざまな人間の、もろもろの本性を目撃したからである。 ≪岩下氏の先輩友人たちの出没奔走の径路を見て、社会の表裏、人情の軽薄、紙よりもうすき虚偽欺瞞の言論行動には、私の人生観——というと大袈裟であるが、人に頼っては駄目だ、人などあてになるものではない、自分の力だけでやれるものに全力を注ぐ、「独行不恥影」それよりほかに手はない、そして如何なる場合でも、プラスの立場にいることである。断じてマイナスであってはならない——と、私は何度か自問自答したことであろう≫  そのように小林は、憤りと恐怖をおぼえつつ書きとめている。つまり、失墜してゆく師の姿からも、そうしたことまでも教わったのである。師が身をもって教えたのだ。  小林は憂鬱であった。華やかな宝塚歌劇団を創設したのはその反動だった。『歌劇十曲』『曽根崎艶話』を出版し、その巻頭に彼は「此書を岩下清周翁に献ず」と書いている。  北浜銀行事件の裁判は八年間にもおよんで、大審院が「被告岩下の所為は私腹を肥さんがために出たるものにあらず」と認めながらも、懲役三年が科せられた岩下清周は、晩年は富士山麓に隠棲していた。 [#改ページ]     野村證券の「帝王学」 [#ここから5字下げ] 「社長も使用人」の哲理を実践する奥村・瀬川・北裏・田淵四人の社長学 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔ロクでなしの社員〕  野村證券の戦後初代社長である奥村|綱雄《つなお》には、日本降伏という歴史はじまって以来の大不幸が、社長の座をあたえてくれる幸運をもたらした。明治三十六年生まれ、滋賀県|信楽《しがらき》の出身、四十四歳のときである。  自分自身で「ロクでなしの社員」と折紙をつけていたくらいだから、まさしく予期せぬ出来事であった。なにしろ京都帝国大学を出ているのだが、学生時代は水泳と花柳界泳ぎばかりやっていたので、三井銀行、三菱銀行、山口銀行など軒なみに入社試験をうけてみたがいずれも不合格。教授の口ききで野村證券をたずねたが、正式合格者に事故があった場合にのみ入れてやるという「補欠採用」だったのである。もし正式合格者の一人の辞退がなければ、奥村の名が財界に浮かびあがってくるようなことは終生なかったかもしれない。  昭和十二年九月、野村財閥の創業者である野村徳七が、野村證券に株式取引をはじめさせたとき、高橋|要《かなめ》(のちの大証理事長)がその課長、奥村が代理、瀬川|美能留《みのる》が主任、そして北裏《きたうら》喜一郎が電話係になっていた。血の気の多い奥村は、上役にも歯に衣着せず意見するものだから、初代社長の片岡音吾に何度となく「辞表を書け!」と叱られたり、女子社員ばかりがいる登録係という閑職へ追いやられてしまったこともある。  敗戦が近い昭和二十年一月、徳七が病歿、六十八歳の生涯をおえた。後継者である一人息子の義太郎もまた、敗戦直後の八月二十四日に四十歳の若さで他界した。奥村は、京大時代は義太郎の二年先輩である。  敗戦時の奥村は取締役兼大阪副本部長だったが、片岡にかわって社長になっていた飯田清三に「わたしを京都支店長にしてください」と願い出た。飯田は唖然となった。京都支店は「終着駅」とよばれていて、取締役が支店長として赴任したためしはなかったし、社員のだれもが行きたがらなかった。  飯田は、一転して怒った。 「名古屋支店長になりたいというのならまだわかるが、京都へゆきたいというのはどういう意味だ。出世を望まんのか!」 「そのつもりでおります」  奥村は一礼した。敗戦後の日本はすべてが荒廃してゆくだろう。それらに背をむけて彼は、学生時代に青春をたのしんだ古都で、欲と得もすてて隠遁生活を送りたくなったのであった。虚無的になってしまったのだ。 〔転がり込んだ社長の椅子〕  GHQ指令によって野村も、三井、三菱、住友、安田などと同様に財閥解体され、野村ファミリーが支配してきた野村證券、野村銀行、野村信託など傘下の十四社はそれぞれに独立しなければならなかった。  しかも、飯田清三も経済界パージに該当するので常務以上の重役たちとともに退陣したため、上役が一人もいなくなり、この大混乱のさなかに後継者にならざるを得なかったのが「終着駅」にいた奥村綱雄なのである。このとき彼自身は「人間、なにが幸いするかわからない。出世がおくれたばっかりにわたしの首がつながったと思った」という。  なぜ奥村を社長に据えたかについては、平山亮太郎(のちの野村不動産社長)と瀬川美能留が、 「とにかく、どこかからシャッポを捜しだそう。京都にいる奥村はどうだろう。サイズのほどはわからないが、一応、シャッポとしてはよさそうじゃないか」  と、あわただしく話し合った結果なのである。  奥村は上京した。まさかこんなことになるとは思っていなかった彼には、経営者としての理念も自信もあろうはずがない。第一、野村證券の現状たるや惨澹《さんたん》たるものである。戦災による被害は予想外に大きく、十四店舗あった地方支店のうち半分を焼失していた。  満洲、京城などの在外資産はゼロ。所有していた外地株の大半は紙くずと化したため、昭和二十一年三月末の決算数字の計上損失は九三二万円だが、在外資産なども合わせた損失合計額が資本金一二〇〇万円の二倍にものぼり、実際にはそのまた倍はあったのだ。  GHQの「証券取引所に関する覚書」が証券市場の再開を妨害しており、兜町も北浜も復活していない。証券マンたちは街頭に立って宝くじ売りをやったり、英文による海外引揚者たちの在外資産報告の手続を代行して、わずかな日銭をかせぐといった毎日だった。当時いた社員の話によると、ゴム長や傘や飴玉を仕入れてきて、ヤミ屋みたいなこともやらされたという。奥村自身も京都は九条の、ヤミ市のそばで映画館を、京都支店の副業としてやっていたくらいである。 「こういう乱世がいつまで続くのかね。ぼくには社長になる自信は皆無だよ」  ショボくれる奥村をはげまして、四歳年下の「参謀」瀬川がこう言った。 「いまの野村證券は、だれが社長になっても再建はむずかしい。だから、社長の座は空席ということにし、専務取締役として采配をふるい、再建の目鼻がついてから社長に就任する……ということではどうですか。そのほうが気楽にやれるでしょう」 〔「経営者もまた使用人」〕  野村證券には「聖書」がある。徳七の自伝『|蔦葛(つたかつら>)』と、彼の業績をたたえる上中下三巻におよぶ『野村得庵伝』がそれである。  今日でも野村證券の新入社員たちは、この両著から抜萃した創業者の経営理念であるところの「顧客とともに栄える」「調査・分析の重視」「国際的視野」を教えられるし、店則を犯して統制を乱すものは仮借なく処分される反面、社員の待遇にはとくに意を用いてきた徳七精神を、徹底的にたたき込まれる。これが厳然たる伝統となっている。  専務に就任した奥村綱雄が「このバイブルを大事にしてゆこう」と思いついたのだ。経営にあたっては集団指導制をとり、社員に対しては徳七精神を強調し、そして「自分たち経営者もまた、野村徳七に委嘱されて経営に従事している使用人にすぎない」点を、態度で示したのである。  その一方で奥村個人は、財界の先輩である松永安左ヱ門、小林一三、五島慶太などの長所短所を「独学」した。専務を八カ月つとめてのち、昭和二十三年四月に戦後初代社長の座にすわった。「二、三年で野村をつぶすだろう」と見られながらも、彼がまず命がけでやったのは「野村」の二文字を頑として守りぬいたことだ。  当時、財閥解体を命じたGHQは「財閥のイメージを残す社名はことごとく抹消する」方針で、かつての三菱銀行を千代田銀行に、安田銀行を富士銀行に社名変更させた。野村銀行も大和銀行とせざるを得なかったが、奥村綱雄だけは首をタテにはふらず、 「野村という社名と信用は、一朝にしてできたものではありません。これには幾多の先輩の血と汗がしみ込んでいます。証券あっての野村であり、この栄光ある社名を、ちっとやそっとのことで変えられますか」  と、天皇よりも偉い存在のGHQに抵抗したのだ。これもまた徳七精神を堅持してゆきたいからにほかならず、野村の社員たちは奥村のこの勇気に刺激されふるい立った。  東京証券取引所が昭和二十四年五月に再開され、兜町が活気づいてくると、奥村は投資信託をオープンして百億円を吸収すべくGHQと政府を説得、投資信託法案の成立に奔走した。謎の「下山事件」が起こったりしていた時期であるので、ハラハラして見ていた先輩の財界人たちのなかには、新橋の料亭に彼をよびつけて「おとなしくしてないと暗殺されるかもしれんぞ」と忠告するものもいた。  一夜、電力再編成問題で孤軍奮闘していた「電力の鬼」松永安左ヱ門に、「きみはこれまで、どういう失敗をしたか」と問われ、左遷されたり失恋したりした胸の痛みを、奥村が語ったことがあった。  とたんに安左ヱ門が大喝した。 「失恋や左遷がなんだ。倒産、投獄、大病を体験しなくちゃ一人前の経営者ではない!」  この言葉は、奥村にとっては大きな衝撃であった。  社長とはいかなる存在であるかを自問自答させられた。「開眼」した彼は、 「実業人が実業人として完成するためには、三つの段階を通らぬとダメだ。その一つは長い浪人生活、二つは長い闘病生活、三つは長い投獄生活だ。この三つのいずれかを経験しなければ、ほんとうの人間はできない」  これを「経営者の資格・心得」として座右の銘にするようになった。松永安左ヱ門や小林一三もそうだが、「帝人事件」の河合良成なども屈辱の獄中生活をしており、そういう人でなければわからない人情の機微があることを、奥村自身が悟るのであった。 〔奥村のダイヤモンド経営〕  奥村は「ダイヤモンド経営」を打ち出した。 「ダイヤモンドは中央の面を囲み、多くの面が多角的に集まって底知れぬ光を放つ。会社経営もまた、かくありたい。一人の独裁でもいけないし、多数の悪平等でもいけない。個が集まって全を形成するが、個は全あっての個であり、個あっての全ではない」  という発想であり、経済評論家の三鬼陽之助に彼は、こうも語っている。 「ダイヤモンドはいろんな面が相寄って燦然たる光を放っているが、同時によく見ると、まん中の頂上に一つの大きな面がある。この面はよく見ないとちょっと気がつかない。けれどもこの頂上の面が大きいほど、ダイヤモンドが二カラットから三カラット、数カラットと大きくなる。  ダイヤモンド経営は集中体だと一般の常識ではいうが、もう一つ掘りさげると、この頂上の中心面が社長なんだ。三鬼先生、自慢じゃないが、わたしはダイヤモンド経営を打ち出すとともに、このまん中の中心面になり、目立たぬなかに大きなものになろうと努めたい」  そして奥村は野村證券を大きくしてゆきながら、このような結論に達する。 「実業人としてほんとうに仕事をするのは、四十五から六十五までの二十年間だ。四十五までは仕事をおぼえ、経験を積み、心眼をひらく一つの準備期である。四十五からほんとうの仕事がはじまり、そして六十五までの二十年間に、その人の実業人としての大骨ができあがるようだ。あとは公債でいうと、元本に対する端数利子みたいなものだ。十億円の仕事をしたら十億円の端数利子がつき、千億の仕事をしたら千億の端数利子がつく」  さらに彼は「近代経営者としてりっぱに成功したかどうかの一基準を、その人がよき後継者を作ったかどうかにおきたい」と考えるようになった。有名な財界人のなかには、そうでなく終わった人も多数いるからである。  だが、これは言うはやすく、行いがたしだ。  野村證券の業績は驚異的に伸展している。奥村が社長になって七年目の昭和三十年には資本金が十億円で、来年には二十億円に増資する計画だ。社員数が二三五三名、日興、山一、大和などを追いぬき、四大証券のトップに躍り出ようとしている。  こんなときに奥村が社長交代を考慮しなければならぬ理由など、あろうはずはない。後継者は瀬川美能留に決めているのだが、まだ彼自身が五十二歳にすぎないし、「ほんとうの仕事をやりつづける六十五」までには十二年間が残っているではないか。 「まだまだダイヤモンドの中心面にいても、文句を言うやつはいないはずだ」 「未練がましく居座るでない。見苦しい結末になるかもしれんのだぞ」  この二つの声がたえず相剋し合った。 〔「別れぎわほど本性が出る」〕  自分自身もふくめて男というものを、奥村綱雄はこのように見ている。 「ぼくは男女の間のことで、男の本性を見抜く一つの方便をもっている。それは男と女とが一緒になるときではない。女との別れぎわが大切なのだ。だいたい男と女とは、ほうっておいてもくっつくものだ。しかし、別れぎわほど男の本性がはっきり出るものはない。  自分の長い経験からそう思う。冷たい男は冷たい別れ方をする。唯物主義の男は、札で頬をはるような別れ方をする。情のある男は同じ別れ方でも、わきから見ていて涙を誘う切々たるものを残す。世間一般は、男と女とが一緒になるときは、随分あれこれ騒ぐものだ。ところが別れるときには、案外さっぱりと聞き流してしまう。しかし、ぼくから言わせるとまったく逆で、男が露骨にその本性を出すのは、女との別れぎわである」  このことを彼は後継者人事にあてはめて「社長が露骨にその本性を出すのは、次期社長にその座をゆずるときである」というふうに置きかえてみるのだ。そして「醜態はさらしたくない」とする自制心をはたらかす。  いま一つ、瀬川美能留にバトンタッチすると決めてはいても、副社長の平山亮太郎を飛び越して専務の瀬川にゆずるのでは、黒い不安がないではない。平山の才腕もすてがたいし、奥村はこうも憂慮するからである。 「同級闘争ということが案外に、世の中を動かす大きな原因になっている。女性は女性とのあいだに同級闘争を起こし、月給とりは月給とりとのあいだに同級闘争を起こす。また重役は重役とのあいだに同級闘争を起こし、政治家は政治家のなかで同級闘争を起こす。その同級闘争のもつれが案外に、階級闘争以上に世の中の大きな変化をもたらすものだ」  瀬川に決めたことが、野村の重役たちの同級闘争の発火点になり、部長同士とか課長同士とかも連鎖反応を起こしはしないか。もしそうなれば「聖書」の教えに反することになる……と恐れるのだった。 〔人事の血液循環〕  そんなこんなの憂慮もあった奥村だが、社長交代の意志を瀬川に伝達したのは、社長になって八年目の昭和三十一年春である。  ところが、伝えた当の本人が肩すかしをくらってしまった。瀬川が本気にしてくれないばかりか、逆にいましめるのだ。そのときのことを瀬川自身が『私の履歴書』(日本経済新聞社刊)のなかに、こう記述している。 「私は奥村社長から『野村證券もこれでどうやら土台はできた。社長に就任してもらいたい』との内交渉があった。私は『自分はまだ社長としてやってゆく自信がない。それにあなた自身、いま退くというのはおかしい。退くならまず配当を復活してからにすべきではないかと思う。さもないと逃げ出したと見られますよ。しかも、あなたは苦難期しか社長をやっていない。やっと会社はツボミをつけたところだ。花が咲くのを見てから退任されたらどうですか』と答えて社長就任を固辞し、奥村さんにつづけて社長をやってもらうようお願いした」  これに対して奥村は、怒ったみたいに、 「アホ言え」  と言ったきりだったが、さらに瀬川はべつの場所で、そのさいの自分の気持を北裏喜一郎に吐露している。 「奥村さんに、社長になれと言われたとき、なんでこの人は自分のことを考えんのだろうと思ったよ。苦労のし通しで辞めるなんて、なんと私心のない人だろう。気の毒だなあ」  感心する瀬川はしかし、次期社長にその座を譲るときに出しかねない男の本性を、いかにして出すまいかと腐心する奥村の胸中と、同級闘争が起こりはしないかと憂慮している奥村の不安……それを察してやることはできなかったようである。奥村がたったひとこと「アホ言え」と、怒ったみたいに言ったのは、察してもらえぬ辛さがあったからなのだろう。  瀬川美能留がバトンタッチに応じたのは、それから三年後の昭和三十四年六月である。 「覚悟はできているだろうね。こんどは厭とは言わせないよ。組織というものは活性化するために、人事の血液が順調に循環しなくちゃいけない。とくに知識産業である証券会社としては、それは一つのカギなんだから」  これが奥村綱雄の、花道から去るときの名セリフであり、以後、社長交代がおこなわれるごとに野村では、それぞれに個性ある名セリフが残されてゆくことになっていった。 〔社長は最低十年〕  瀬川はしかし、すんなり快諾したわけではない。健康には自信があったのだが、彼はまず築地の聖路加病院の人間ドックにはいり、一週間の診察と精密検査をうけた。社長の激務に耐えうる五十二歳の肉体であるかどうかを、入念にチェックしてもらったのだ。  任期中に病床に伏すようなことになっては、会社全体に迷惑をおよぼすことになるからで、人間ドックから出てきてはじめて奥村に「やりましょう。しかし、長くて二期(四年)ということにしてください」と申し出た。 「なにを言うか。社長たるもの最低十年はやれ。十年やってこそ足跡が、会社にも業界にも残る。四年などとけしからん」  奥村は一喝した。  社長交代のたびに名セリフが残されてゆくと同時に、野村では任期十年が不文律になっていった。五十六歳の若さで颯爽と退陣してゆく奥村を世間は賞讃し、財界の話題にもなった。多くの大企業では五十六歳といえば、やっと社長の座にたどりついたかどうかの年齢なのだから当然である。 「奥村は会長の座にあって実権は掌握し、瀬川社長を思いのままリモートコントロールするのではないか。院政だよ」  との経済ジャーナリストたちの声に対しても、彼は立場を鮮明にすべく書いている。 「アメリカへ行くと社長より会長のほうが偉い。会長は株主を代表する重役の大将であり、この重役会の決定にしたがって社長が業務を執行する。バイス・プレジデント(副社長)のごときは社長の業務執行を補佐する。日本でいえば部長に毛のはえたところ。ドイツでも時に会長のもとに社長が十何人も居並んでいる。けれども日本は事情が違う。  株主はどこまでも株主であり、会社の経営はあげて経営者にまかせている。そうしてこの経営者の中心はどこまでも社長である。だから私は言っている。会社のことで気がついたら、必ずあなた(社長)に申しあげる。でないと二元統制の危険がある。二元統制になったら会社はおしまいだ。そのかわりもしあなたが思案にあまることがあったら、ぼくに相談してください。そのとき、なるほどとあなたの参考になるような答えができたら、会長においておきなさい。そのくらいの名答が出ぬようだったら、会長を辞めさせなさい。いつまでも帽子をかぶっていると窮屈なものだ、と言っている」  瀬川美能留は奈良県五条市出身、苦学しながら大阪商大(現在の大阪市大)を卒業。昭和四年に野村證券に入社。営業畑で育って十年後の昭和十四年、妻を亡くして鬱々としていた彼は、満洲野村證券へ支配人として転勤させられそうになるが、 「もっと日本証券界を勉強してからでも遅くはない」  と奥村綱雄に忠告され、東京支店株式課への転属を希望した。  もし、支配人として満洲へ渡っていたら、敗戦時にはどういう運命になっていたか知れない。彼のかわりに満洲野村へゆき、ソ連軍に拉致されて酷寒のシベリヤで抑留生活をさせられるうちに行方不明になった、そういう気の毒な社員もいるのだから。 「瀬川内閣は短命内閣だろう」 「いや、経営方針を大きく変えるだろう。でなければ、奥村と交代した意味がない」  この二つの臆測が、瀬川の周辺にはあった。  瀬川は堅実主義者、石橋をたたいて渡る男であった。他人にご馳走になるのを嫌っていたし、自分の責務はあくまで奥村路線を継承しつつ完備し、発展させてゆくことだという信条に徹した。そして社員たちへの社長就任の挨拶のなかで、自分の名前をたとえにして、「みのるほど頭のさがる稲穂かな……この気持で仕事をしてゆきます」  と述べている。  彼もまた奥村と同様、徳七精神を信仰して「経営者もまた使用人である」の姿勢をとったのだった。 〔野村證券玉ねぎ論〕  世は池田勇人内閣の「所得倍増」の高度成長期にはいった。大衆投資家たちが殺到して証券界も「銀行よさようなら、証券よこんにちは」の好況時代を迎えた。  それでも瀬川の経営方針は、内部保留第一主義で緊縮財政をとりつづけた。猛烈にはたらく野村の社員たちを見て、ほかの証券マンたちが「あそこはノムラ証券ではなくノルマ証券」だとか「バテるまではたらかされるヘトヘト証券だよ」と陰口したのもこのころである。ヘトヘトとは野村の屋号が、山二つ《へへ》にトだからである。うまいことを言う。  当時、副社長に昇格していた北裏喜一郎は、新社長の瀬川を、このように見ていた。 「瀬川さんは出っぱらない人だ。社長就任と同時に、外車からトヨペットに乗りかえた。ぼくはそのとき外車に乗っておったんだけどね、瀬川さんはさっと国産車にしたわけだ。これは会社経費を締めるということより、心構えというか、精神的なものだったと思うんです。あのとき、外車に乗っておっても別にかまわんのだが、さっと乗りかえたその変わり方というものは、ちょうど奥村さんとまったく一体というか、形が違うだけで両方とも同じ精神ですね」(野村證券社内誌『社友』四十四年一月号)  つまり、野村證券の社長の座にすわるには「形こそ違え」徳七→奥村→瀬川のタイプになってゆくことが第一条件なのだ。型破りは絶対に許されぬのであり、そのような人材が続々と育っていることに、奥村は大いに満足している。彼は言う。 「わたしは部長には『きみは重役のつもりでいたまえ。そして、きみの権限は次長にまかすようにしなさい』と言う。課長には『あなたは部長のつもりではたらくんだ。課長の仕事は代理にやらせなさい。そのほうが大きくなるよ』と言う。上も下もみんなこの調子で権限を委譲されているから、自然に人材ができてゆく。一人でいくら力んでみても限りがある。組織が大きくなればなるほどそうなる。わたしの周囲に人材雲のごとくできあがったのは、このおかげである。いまではあまり偉い人ができすぎて、自分自身がはじき出されてしまいそうである」と。  確かにこれは他の証券会社では見られない、野村独特の人材育成法であった。こうして育ってゆく現象を北裏喜一郎が「野村證券玉ねぎ論」と称して誇りにしている。「野村證券はひと皮むいても、ふた皮むいても、さらに三皮むいても十分やっていける。玉ねぎのようにいくら皮をむいても、新しい芽(人材)が出てくる」からである。 〔「社員もまた野村一族」〕  野村では年一回、全社員とその家族たちが参加する大運動会を開催しているが、その場に社長として臨んだ瀬川が、 「自分が長としての責任をいちばん感ずるのは、この運動会です。ヨチヨチ歩きの赤ん坊とか、小学生づれの家族たちが二万人も参加して、スプーンレースやパン食い競走を和気あいあいでやっているのを観てると、自分がぼんやりしとったら会社の経営が危うくなり、全国の支店の社員や家族も合わせて五万人もの人間を不幸にしてしまう。これは責任重大だと、つくづく感じさせられた」  というのも、徳七の「社員もまた野村一族」とみなしてきた大家族主義を尊重すればこそなのである。  もちろん、瀬川も「社長の任期は十年」で交代するつもりでおり、大家族主義を継承してくれる「新しい芽」については—— 「経営者にとって人事というものは、毎日毎日考えるべきものです。今日の段階においておれが死んだらどうなるかとか、だれかが辞めたらどうすべきかとか、毎日考えているべきです。少なくとも私が社長だった時代には、部課長ぐらいのところまで考えていた。それを考えるのが社長の仕事だ。  しかし、わたしは役員会でこんどはだれを役員にするとか、重要人事を相談する場合、あらかじめ考えておけということは言わんことにしている。というのは、役員である以上、毎日、人事は考えていくべきで、人事について今日なら今日の時点の、一つのジャジメントがないとウソですよ。経営者というものはロングランに見て、だれを選ぶかということが、自然に決まってくるんじゃないかと思うんですがね」  これを胸中に秘めておいた。彼の胸中で「自然に決まって」いたのは、「野村證券玉ねぎ論」を誇りにしている北裏喜一郎だった。  瀬川の社長就任から六年後——昭和四十年四月にアメリカ最大の民間委託研究機関であるスタンフォード・リサーチ・インスティテュートと提携する野村総合研究所(資本金五億円)をスタートさせた。世界の情報を処理する機関であり、この創設に手腕をみせた北裏に対して内部にあっては奥村が「帝王学」を教授しつつ、外部には機会あるごとに野村総研を宣伝しながら瀬川が、近代化に必要な理論家である彼の才能をほめてみせた。会長と社長が、北裏を売り出す努力をしたのである。  奥村は、北裏にこう言いふくめている。 「わたしが社長時代に骨組みをつくり、瀬川社長が肉づけして、実力からいって住友、三菱の信託銀行と肩をならべるところまできたんだ。だが、これからの時代はもう一つ、ラージよりグレートにならんといかん。つまり質的なことを考えていかなくちゃダメだ。非常な激変期にさしかかるだろうから、真の体質強化という点に、新社長は全力投球していただきたいということやな。ネオ・ネオ・ネオの中でだ」 〔正確無比の交代劇〕  北裏喜一郎が戦後三代目社長に就任したのは、佐藤栄作内閣時代の昭和四十三年十一月、五十七歳のとき。瀬川美能留は会長になり、奥村綱雄は相談役に退いた。  経済記者たちはこぞって正確無比の、十年後のこの交代劇を「脈々と血の通った」ものとして賞讃した。他の企業にみられる社長の公私混同がないので財界人もまた拍手した。 「野村證券社長には、時代の変わりめにもっとも適した人材が登用されている。憎らしいほどのみごとさである」  時代の変わりめ——奥村が戦後の混乱期に野村を再興し、瀬川は証券界の新しい商品と新しいシステムをつくり出しており、そして北裏は安定成長期のなかで公社債市場の拡大と国際化を強力に推進してゆくだろう、と見なしているのだった。  瀬川社長時代の十年間にも証券界には大波小波が絶えなかったが、北裏にバトンタッチしたそのときまでに、野村の資本金は一二三億六〇〇〇万円、社員数六九〇〇人、経常利益が一三八億円を突破していた。  これをさらに突破させてゆかねばならぬ北裏の責務は重大だが——それはともかく、前述のごとく野村総研がスタートした時点で奥村と瀬川は、北裏を三代目に内定していて外部にも売り出す作戦を展開してきたのに、当日になるまで瀬川自身は、北裏に対しては直接に意志表示はしていない。  なぜならば—— 「奥村さんが三年前からわたしに譲ると言えたのは、小さな会社で発展途上にあり、これからますますやっていかなければならなかったからで、現在のこのような大きな会社になってみれば、瞬間まで後継者はだれか、じーっと考えるのがほんとうです。  ですから、わたしが北裏君に社長の座を譲った場合も、瞬間まで黙っていた。人から早いとか遅いとか言われたが、ぜんぜん耳を傾けなかった。奥村さんは『きみ、ちょっと早すぎゃせんか』と言っていたが、お愛想だと聞き流していた。二、三年前から馬の首にニンジンをつけて走らせるようなことは、本人にとっても周りの人にとってもかなわない。ですから社長を譲るときは、相手が朝、目をさましたらいつの間にやら社長になっていた……そういうのがいちばんよい」  と思いやってのことである。  それは奥村が経験した「社長が露骨にその本性を出すのは次期社長に座をゆずるとき」の「醜態はさらしたくない」心の動揺のようにも見えるのだが、 「そのへんは瀬川氏の迷いではなかったのか。迷いがあったから瞬間まで、北裏指名をためらっていたのではないか」  との声が兜町や北浜でささやかれた。 〔派閥を破る北裏人事〕  それというのも、巨大企業になった野村にはいつのころからか「足利尊氏論」なるものが出てきたからである。野村證券の発祥の地は大阪だから、大阪方にはつねに「東京が本社であっても大阪支社のほうが格が上。大阪あっての東京だ」というプライドがあるし、「おれたちの上司を社長にしたい」悲願が大阪方にはあるというのだ。  足利尊氏が西国のほうから兵力を集めて都へ攻めのぼってきたごとく、大阪支社のトップが関西の社員を糾合して謀叛をおこす……そういうことはあり得るという。瀬川美能留はライバルの平山亮太郎と次期社長の座を争い、今回の北裏喜一郎の対抗馬は沢村正鹿。しかも沢村が瀬川の直系であるため、瀬川は北裏指名を最後の最後までためらいつづけてきた……そんなカングリがなされたのだ。瀬川の本心は沢村を指名したかったはずだというのである。  これでは奥村が案じてきた同級闘争に進展しかねないし、企業にとって、最大のガン細胞になってゆく社内の派閥抗争を、もっとも恐れたのは創業者の徳七とその子義太郎だ。  どこの企業でもそうだが、大所帯になれば若いゼネレーションや進歩的分子が育ってくるし、学閥的な団結や対立がおこり、内部崩壊の元凶になる。野村コンツェルンにおいても学閥を形成して主導権を掌握したがるうごきが出はじめたので徳七は、 「派閥をつくらせる人事交流はやるな」  と指令して、義太郎に、一六〇万円で買収した大阪の白木屋ビルに「野村倶楽部」を昭和十年に開設させるほどの気のつかいようであった。  この「野村倶楽部」を全社員に平等に利用させたり、部課長会議などもここでやらせたりすることによって、関係会社の動向をキャッチする情報交換の場所とし、人事関係がスムーズにゆくサロンにしたものだった。  だから派閥がらみの後継者人事をやろうものなら、徳七精神に反するわけだし、自分もまた奥村のいう「近代経営者としてりっぱに成功したかどうかの一基準を、その人がよき後継者を作ったかどうかにおく」べきだと決断して瀬川は、直系の沢村正鹿より北裏喜一郎を選んだ……そのように憶測されたのだ。  それが真相なのか、野次馬たちの単なるカングリなのかは判断できないが、北裏指名が名人事であったことは確かだ。 〔「和」の北裏の世代論〕  北裏喜一郎は和歌山出身、神戸高商(現在の神戸大学)を卒業して昭和八年に野村證券に入社している。  太平洋戦争が勃発した昭和十六年、結核で倒れた彼は出世を断念して、静岡県三島市郊外の山中にある禅宗の「竜沢寺」に三年間、療養をつづけながら参禅するためにかよった。禁欲生活にはいり、法衣をまとい、お経を唱えての托鉢もやった。素足にわらじ履きだ。  数年前、わたしは「財界の黒幕」といわれる田中清玄にお供してこの寺に詣でたことがある。戦争中、北裏が参禅していたそのころ、共産党の武装闘争のリーダーだった田中清玄も、長い獄中生活から解放されて、この寺で人間修行をやっていたのである。それ以来、彼はこの寺に毎年詣でているのだった。若い僧たちが昔ながらの荒法師なみの修行をやっているのを見て、わたしはびっくり仰天したものだった。おそらく北裏喜一郎も、そうした人間修行に耐えたのだろう。その意味では前述のように奥村が言う、長い浪人生活、長い闘病生活、長い投獄生活のいずれかを経験したものこそ経営者の資格がある……その一つを北裏は身をもって体験したことになるわけだ。  戦後、大阪支店にもどった北裏は、証券の仕事がないため、梅田や難波の駅前で社員たちと組んで宝くじ売りをやっていた。奥村社長時代の昭和二十四年、北裏は三十七歳で取締役に抜擢された。それから二十年後に社長になれたのだが、もちろん彼も、時流に合わせながら徳七精神を信仰してやまぬ「経営者もまた使用人」であるのを強調した。野村を繁栄させるのはこの信仰心以外にないのだ。  三段階にわけた自分の「世代論」を披瀝しつつ彼は、経営者としての心得を明確にしている。 「まず第一の三十五歳ぐらいまでの世代は感ずる層である。世の中の動きに対して最も敏感であるが、それだけに直截《ちょくせつ》で単純である。若い学生なども動きのなかには、妥協を許さない真実があることもしばしばである。アイデアの多くはこの層から出るが、しかしそのまま仕事になる、あるいは社会生活に表わしうるものになるということにはならない。  これを仕事として構成してゆける、フォーメーションを担いうるのは、三十五歳から四十五歳ぐらいまでの層である。社会的経験とか判断力が、第一の世代のものを修正するのである。そして、その修正されたいくつかのもののなかから、最終のただ一つを決定するのが、四十五歳以上の層である。  わたしは、リーダーシップもまた、かくあらねばならないと思っている。リーダーシップが独裁であってはならない。真のリーダーシップとはそういう英語はないかもしれないが、フォロアーシップに裏打ちされたものだと思う。もちろん、なんら定見をもたずに下の人たちの意見に従うという、単なるフォロアーでは困る。しかし、自分は自分の意見をもったうえでいろいろな意見を出させて、そのなかから最終これだと決める。下から見れば、自分たちが出した意見である。そこには参加がある」と。  事実、この姿勢で北裏は経営を貫いた。経済評論家の梶原一明は「意の奥村、情の瀬川、和の北裏」と特徴づけている。 〔「動」の田淵の悪戦苦闘〕  北裏にとってもっとも残念だったのは、自分の全仕事を見てもらえずに、相談役の奥村綱雄に去られてしまったことだ。四十七年十一月、奥村は六十九歳で病歿したのである。  北裏喜一郎が十年間の社長生活に幕をひき、五十四歳の田淵節也を後継者にしたのは五十三年十二月だった。この時点での野村證券の資本金は六六四億三五〇〇万円、社員数八九五七人、店舗数一〇三店、海外拠点数二三店、経常利益七一一億円となっていた。  田淵節也は大正十二年生まれ、昭和二十二年に入社した京大法学部卒の副社長。戦前に入社した奥村、瀬川、北裏は創業者徳七の拝顔の栄をえたことがあるが、戦後入社の田淵にはそれがない。これからはこのように、野村一族とはまったく無縁の人たちによって、野村證券が経営されてゆく時代がきたのだった。  ところで——この交代劇の場合も「足利尊氏論」がむし返され、大阪方が支持する「実戦派で若手にも人気抜群」の小畑幸雄(副社長=大阪商大卒)とデッドヒートを演ずるかに見えた。 「取締役になったとき、副社長くらいにはなると思っていたが、欲のないほうで社長までは考えていなかった。なりたいとも思わなかった」  と新聞記者のインタビューに田淵自身が答えているが、交代三カ月前に北裏が、 「野村五十年の歴史の底に流れる、清冽な地下水だけは、決して汚しちゃいけませんよ」  の名セリフをあたえたのは、小畑にではなく、欲のないその田淵のほうへだった。  小畑は瀬川・沢村の系列と見られていた。それが奥村・北裏系列の田淵に敗れたのだから、兜町では瀬川勢力の衰退をうわさした。しかし「活性化するために人事の血液を順調に循環させる」ことに成功したわけで、マスコミは「新時代に即応、若さで勝負する田淵体制」に期待し、サラリーマンはいまやワールドエンタープライズになりつつある野村の、新社長になりえた田淵を羨望した。  これより「動の田淵」といわれて活躍するが、彼はある意味で不運だった。北裏社長時代の「昭和元禄」は昔日の夢と化し、いまや地球全体が冷えてしまって、世界的不況、戦争不安、金融革命がおこりつつある、もっとも景気観測が困難な「新時代」なのだから。  田淵の操縦いかんでは野村證券といえども「墜落」しかねない乱気流のなかを、飛行しなければならないのである。十年交代の半分——五年目を迎えた現在でも田淵は、依然として乱気流のなかで悪戦苦闘している。そして兜町ではそろそろ、次期社長候補についてうわさしはじめている。 「こんどばかりは十年交代にはならず、田淵社長退陣は早まるのではないか」  という声もある。経済界を動転させたIBM事件が発生、日立株などの大暴落によって野村は、一千億円ある経常利益が四〇パーセントもダウンした……そんなアクシデントがあったりしたのが原因だという。まったく一寸さきは闇、なにが起こるか予測しがたい恐ろしい「新時代」である。 〔ポスト田淵争奪戦の幕開き〕  昭和五十七年十二月一七日、野村證券本店でおこなわれた第七十八回定時株主総会に提出の「第三号議案・取締役二十三名選任の件」には、その候補者名に常務取締役であった野村文英はなく、「第六号議案・退任取締役に対する退職慰労金贈呈の件」に、江頭啓輔とともにその名が並んでいる。そして、それら議案のすべては株主たちの「異議なし」で、とどこおりなく承認されたのだ。  つまり、ただ一人の野村家——徳七の孫に当たる野村文英が退職すれば、取締役陣に野村家直系がいなくなってしまうのである。彼は野村證券の監査役になった。  また、江頭啓輔はロンドンの野村インターナショナル・リミテッド社長——野村證券の国際業務を今日あらしめた大功労者だったが、西武百貨店に移ることになったのだ。 「野村文英、江頭啓輔……この二人が去ってゆくということは、ポスト田淵の争奪戦がすでに、序盤戦から中盤戦になっているのを意味していますね」  兜町の某ジャーナリストが、そう断言した。  田淵は「野村五十年の歴史の底に流れる……」の名セリフを北裏からあたえられたときの心境を、こう語っている。 「これが腹にどーんときた唯一の引き継ぎ事項なんです。そのとき以来、ぼくも社長をバトンタッチするときのセリフは、これに決めているんです」(『財界』五十七年七月号)  だから彼自身はもう、独自の名セリフを考えておく必要はないわけだ。 [#改ページ]  あとがき  今年——昭和五十八年の新春、数え年九十歳になられた松下電器の松下幸之助さんに、二時間にわたりインタビューする機会を得られた。わたしの質問に対して、ポンポン答えてくださったが、なかでも—— 「人間はね、この世に生まれてきた以上は、いつ命がなくなるかわからしまへん。ことに都会に住んどったら、自動車にポーンと衝突しまっしゃろ。寸時も油断でけんわけや。早い話が、経済活動かてそうや。魚河岸に行ってみなはれ。きのう百グラム百円だったブリの値段が、きょうも百円やと思うたら、えらい間違いや。きょうは百五十円に変わっとりまっしゃろ。それだけ変転がはげしい時代にね、政治だけは十年一日のごとくやっとる。そやから日本は呑気ですワ。国民ものほほんとしとる。けど、ほんとうは日本も世界不況の渦中にあるんでっせ。日本だけが安全地帯にいるわけやおまへん」 「こないだ、ぼくはアメリカへ行ってびっくりした。きれいなビルを次々と潰しとる。『もったいない、なんでや?』と尋ねたら、『このビルは建ててからまだ三十年にしかならない。あと百年は使える。しかし借りてくれる入居者がいない。より近代的なビルが新築されてゆくので、だれもがそちらに入居したがる。快適に建てられているからね。このビルはもう三年前から空家だ。仕様がないから壊してしまうんだ』と言う。たった三十年つこうただけで廃屋同然になってしまいますのや、ニューヨークでは。それだけ新陳代謝が早いわけや。だからね、東京でもビルは百年はもつと思うたら大間違いや。百年してみなはれ、どのビルもまだ使えるけど、だれも寄りつかんようになる」  特に現実と近未来を見つめて仕事を考えておられる、その姿勢に大いに感服させられたものだった。  功成り名とげた九十歳になってなお、松下さんは自分が生きている時代というものを、じかに肌でとらえておられるのだ。そういう先見力・着眼力・行動力があってこそ「男の切れ味」が冴えるのである。ここに集合してもらった人たち——近代の「夜明け」に踊り出てきた坂本龍馬をはじめ、三野村利左衛門にしても、村山龍平や野村徳七にしても、あるいは戦場で散華した加藤建夫にしても、自分が生きているその時代時代をじかに肌でとらえていた、その事実を読者諸賢は納得してもらえると思う。だからこそ「男の切れ味」がそれぞれにみごとだったのであり、松下幸之助さんのその言葉を、かれらのなかのだれかが言ったとしても、ぴったりくる感じだから不思議である。  松下さんが歯がゆがるように、確かに現代の「日本は呑気すぎる」し、新陳代謝がはげしいのに「国民はのほほんとして」いる。わたしは「男の切れ味」即「男学」ないしは「男の美学」だと思っているが、そういうものが感じられない男性が多くなったのも、時代と四つに組んで生きようとする意欲が稀薄で、呑気にのほほんとしすぎているからだろう。残念至極というほかはない。  男の生きざまのすばらしさは、いかにおのれの仕事に一生を賭けたかに尽きる。大成するしないは二の次であり、そのすばらしさが「男のロマン」であるのを忘れないでほしい。良妻をもって幸せだったとか、賢い子たちに恵まれた……そんなのはとるに足りないことだ。繰り返し言う、男子一生の生きがいはおのれを賭けることである。(小堺昭三) 〔著者略歴〕 小堺昭三《こさかい・しょうぞう》 一九二八年、福岡県大牟田市生まれ。北九州市旧制八幡中学卒。大陸を放浪したのち火野葦平に師事し、「週刊文春」記者を経て文筆業に専念。「文学者」同人。一九六〇年『基地』で芥川賞候補、一九六一年『自分の中の他人』で直木賞候補となる。著書 『企業参謀』『破天荒一代』『自民党総裁選』(角川書店)、『乱世の経営者』(光文社)、『財閥が崩れる日』(日本経済新聞社)、『赤い風雪』(文藝春秋)、『カメラマンたちの昭和史』(平凡社)、『流行歌手』(集英社)など六〇冊を数える。